企画展「小津安二郎展」でその歩みを振り返る(横浜市・神奈川近代文学館) | ひつぞうとおサル妻の山旅日記

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ひつぞうです。
おサル妻との山旅を中心に日々の出来事を綴ってみます。

生誕120年 没後60年 小津安二郎展

 

往訪日:2023年5月2日

会場:神奈川近代文学館

所在地:横浜市中区山手町110

会期:2023年4月1日~2023年5月28日

開場時間:(月曜休館)9時30分~17時

料金:一般800円 大学生400円 高校生100円

アクセス:みなとみらい線・元町中華街駅(6番出口)から徒歩約10分

※館内写真撮影NG

※すみません。終了しました

 

※文中の写真用にネットから幾つかお借りしました。

 

ひつぞうです。連休の後半は神奈川近代文学館で開催中の《小津安二郎展》に向かいました。今年は監督の没後60年のメモリアルイヤーだったんですね。ゆかりの品やスチール写真を観て尊敬の念を新たにしました。以下、見学記です。

 

★ ★ ★

 

自宅から歩いて行ける距離ということもあり、出かけることにした。当初は愚図つくという予報だったが、なんのことはない、天気は朝から快晴だった。港の見える丘公園は午前中から観光客で賑わいをみせていた。

 

(できるだけトリミングしました。本当はすごい人です)

 

イングリッシュローズの庭は真紅やピンクの薔薇が満開だった。

 

 

大佛次郎記念館の横に架かる化粧煉瓦の跨道橋を歩いていく。向かい側に建つのが近代文学館だ。前回訪れたのは谷崎潤一郎の企画展だったから八年前になる。随分久しぶりだ。

 

 

1984年竣工の神奈川近代文学館の設計は浦辺鎮太郎。京都帝大建築学科を卒業後、倉敷レイヨンに入社。社長の大原總一郎に認められて、個人設計事務所を設立。当館はその最晩年の作品といえる。ちなみに總一郎は大原美術館の生みの親、大原孫三郎の嫡男である。篤志家の血筋を感じさせる逸話だ。

 

 

(神奈川ゆかりの作家を紹介する)常設展示と企画展示に分かれる。早速観てみよう。(歴史的評価を得た人物として文中での尊称は省略します)

 

構成は以下の通り。

 

第1部 映画の世界へ

第2部 小津安二郎の戦争

第3部 芸術のことは自分に従う

 

「なんかセットがあゆ」サル

 

 

遺作「秋刀魚の味」の舞台となった“まずいラーメン屋”燕来軒だ。飲んだくれの親父役、東野英治郎の演技が光っていた。初代黄門様の高潔なイメージとは違って、劇映画の東野の役は、百姓、長屋の住民、巡査など、味のある脇役が多かった。この作品でも憎めない小市民を演じて印象的だった。ともに俳優座を創設し、悪役で鳴らした小沢栄太郎とどこか一脈通じるものがある。

 

(かつての教え子たちに招待され、旨そうに椀物を口にする「ひょうたん」こと佐久間先生を演じる東野)

 

更に、この横では『彼岸花』『おはよう』など、カラー作品の予告編が上映されていた。本篇だけでは判らない日本映画黄金期の熱気が伝わる良い教材だった。

 

★ ★ ★

 

さて。まずはおサルのためのおさらい講座だ。

 

「ぜんぜん観たことないし」サル

 

 

小津安二郎(1903-1963)。映画監督。東京・深川に生まれる。松竹キネマ蒲田撮影所に入社後、脚本家、映画監督として才能を発揮。のちに「小津調」と呼ばれる特有のカメラワークを用いた人情劇を多数発表。代表作「東京物語」をはじめ、その作品は国内外の映画人に多くの影響を与えた。

 

★ ★ ★

 

写真撮影は一切NGなので、文字中心の備忘録になる。遺品とパネルを中心に小津監督の生涯が展示されていた。

 

=出生と思春期=

 

まずは生まれから思春期まで。実家は海産肥料問屋を営む伊勢松阪出身の豪商・小津与右衛門の分家筋にあたり、裕福な生活を送っていたそうだ。

 

「ふむふむ」サル そうなの?

 

だが、子供の健康と教育のために、小津家は出身地の松阪に移住。三重県立四中(現在の宇治山田高校)に進んだ小津は柔道と映画に没頭。大学入試も放り出してしまう。神戸高商(現.神戸大経済学部)や名古屋高商(現.名古屋大経済学部)を受験したのだから、秀才ではあったのだろう。でも、父親には「望みがない訳でもない」と言い訳しながら、全部落ちてしまう。

 

「駄目じゃん」サル

 

アメリカの無声映画「シヴィリゼーション」(1916年)との出逢いが決定打になり、将来は映画監督と決めてしまったんだ。

 

「目算はあったの?」サル

 

あんまり考えてなかったんじゃない。でも、小津の映画狂は堂に入っていて、観た映画の記録を綿密にメモし、海外の俳優に直接ファンレターを送るという猪突猛進ぶり(記録と手紙が展示)。落第して仕方なく地元の代用教員の職につくが、ちょっとした縁で松竹蒲田撮影所の撮影助手に採用されてしまう。この偶然がなかったら、世界のOZUは存在しなかったかもしれない。

 

=監督への道=

 

第二の転機は有名な“カレー事件”だ。撮影所食堂でカレーを食おうと並んでいた小津は、順番をすっ飛ばした賄い夫に殴りかかり、大騒動に発展する。事態を耳にした松竹のドン・城戸四郎は小津をじきじきに呼び出すが、その物怖じしない態度を気に入り、監督の道が開かれることになるんだ。

 

「なにが幸いするか判らないにゃ」サル

 

真似できないけどね。下手したら馘だし。

 

時代はいまだサイレント。質など問われない量産システムの時代だ(フィルムも消耗品扱いだったので殆ど残っていない)。小津も撮りまくった。そんな中で大ヒットしたのが『お嬢さん』(1930年)だ。主演は岡田時彦栗島すみ子

 

(当時話題となった河野鷹思デザインのポスター)

 

岡田は女優・岡田茉莉子さんのお父さんで、当時は美男俳優として全盛を誇っていた。小津とのコンビも多く、茉莉子さんも『秋日和』『秋刀魚の味』に出演していて(今回の企画にあわせた特別講演もあったが予約は終わっていた…)家族ぐるみのつきあいだった。まあ、そんなことはどうでもいい。本作でキネ旬ベストテン2位を獲得。小津の絶好調が始まる。

 

「その時代を知る俳優さんっているんだにゃ」サル

 

有馬稲子さん、香川京子さん、岩下志麻さん、若尾文子さん。たくさんいるよ。

 

=戦争と小津=

 

とまあそんな小田に無情にも召集令状が届く。送りこまれた中国戦線では、死にゆく戦友を看取ったり、クリークの泥水で渇きを癒したり、あるいは戦闘帽が原因で頭が薄くなったり。内地の脚本家・野田高梧への手紙に、ユーモアと自虐を込めて「一通り戦争気分を満喫しています」(昭和13.1.1)と綴っている。しかし、小田を一番落胆させたのは山中貞雄の戦死の報せだった。名作「人情紙風船」(1937年)を撮った山中は将来を嘱望される新進監督で通じるものがあったのだろう、唯一無二の盟友だった。

 

=戦後の活躍と小田調=

 

そしていよいよ、原節子とコンビを組む紀子三部作の登場だ。同じ紀子という名前の若い女性が主人公の「晩春」「東京物語」「麦秋」をそう呼ぶ。物語に関連性はない。

 

『晩春』(1949年)スチール写真

 

父親を一人残して嫁ぐ娘の気持ちを叙情的に描く「晩春」。原作は廣津和郎の小説『父と娘』。精神病みの貧乏小説を得意とする廣津の作風からは想像できない美しい物語である。

 

東京物語(1953年)スチール写真
 

謂わずと知れた日本映画の金字塔「東京物語」。ここから小津作品に入る人が多い。かくいう自分もそうだった。老父役の笠智衆はこの時49歳。若い頃から老け役が多かった。「男はつらいよ」の御前様もそうだったが、終生抜けなかった熊本弁のイントネーションも今となっては味のひとつ。

 

その後も、失敗作とも言われる、有馬稲子さんの初々しい演技が好ましいけれど滅茶苦茶暗い『東京暮色』(1957年)、山本富士子さんの早口の京都弁が記憶に残る色彩鮮やかな初カラー作品『彼岸花』(1958年)、先代の鴈治郎さんと京マチ子さんの色気のある掛け合いが大映調の『浮草』(1959年)など、王道からちょっと外れた佳作も含めて、一年に一本のペースで作品を練り上げた。

 

「浮草」より(京マチ子さんが演じる女性には、松竹作品にはない婀娜っぽさがあった。好きな女優のひとり)

 

小津調とは偉大なるマンネリズムである。監督自身が述べているように、豆腐屋にとんかつを作れといっても、それは無理な相談だ。撮れる画は決まっている。決まっているからこそ、脚本には拘りぬいた。茅ヶ崎館での缶詰合宿は有名なエピソードだ。

 

(仕事と酒は人生の両輪だった。茅ヶ崎館での小津と野田の両名)

 

小田は「飲酒は緩慢なる自殺と知るべし」という言葉を残している。直接にそれが原因だったかは判らないが、茅野の地酒ダイヤ菊をこよなく愛し、脚本執筆にも酒が欠かせなかった小津は、名作「秋刀魚の味」を残し、1963年の暮れに頸部の悪性腫瘍がもとで60歳の生涯をとじた。

 

「でも酒のない人生も味気ないしのー」サル 悩ましいにゃ

 

しかし、なぜ神奈川近代文学館なのか。工業化が進んだ蒲田では、ホームドラマの撮影を続けるには煩すぎ、大船に撮影所が移転したのも一つの契機なのだが、小津作品には神奈川ロケが多い。箱根、茅ヶ崎、鎌倉、そして横浜。笠智衆演じる父親は、たいてい都内で大学教授や企業の重役に就いているが、自宅は鎌倉周辺の郊外という設定が多かった。

 

 

これも何かの縁だ。戦後の小津作品は殆ど鑑賞しているが、近頃はなんでも忘れてしまうので安心できない。また時間を見つけて観てみよう。きっと新たな発見があるに違いない。ということでお昼になった。

 

どこかランチできるところない?

 

「任しとき!」サル 馬車道周辺は庭みたいなもんよ

 

(つづく)

 

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