太陽の塔(万博記念公園)
℡)0120‐1970‐89
往訪日:2023年4月8日
所在地:大阪府吹田市千里万博公園1-1
開館時間:10時~17時(要確認)
入場料:一般720円+(入園料)260円、小中学生310円+80円
アクセス:大阪モノレール・万博記念公園駅から徒歩約2分
《ついに出逢えた》
ひつぞうです。関西観光第三弾は太陽の塔です。1970年開催の万国博覧会で象徴的モニュメントとして建設された太陽の塔が2018年に再生。内部見学できるようになりました。いつか行こうと狙っていましたが、呆気なく往訪の機会を得ることに。転勤も捨てたものではありませんね。以下、往訪録です。
★ ★ ★
子供の頃の国際博覧会といえば沖縄海洋博と大阪万博。とりわけ人気を誇った大阪万博の総入場者数は6421万人。すさまじい数の観光客が押し寄せた。まだ三歳だったし、九州圏外に出ることを殊更に嫌う偏屈者のオヤジのせいで念願は叶わなかった。ちなみにおサルはこの6421万人のひとりである。
「まだ二歳だったけどにゃ♪」 なんも覚えとらん
太陽の塔の見学は人気が高い。そのため二週間前からネットで予約しておいた。当日の朝、北大阪急行・千里中央駅から大阪モノレールに乗り換えた。これも当時、EXPO'70を象徴するインフラだった。天気は前夜の荒れた天気が残り、あいにくの曇り空。不安定な一日となりそうだった。
(帰りの際の写真です。さいわい晴れました)
万博記念公園駅でおりた。大勢の人が思い思いの方向に散っていく。中国自動車道を歩道橋で跨いで正門前から入場する。ここにはEXPO'70のパビリオンゆかりの施設や自然公園が広がっている。それぞれの施設の参観料とは別に入園料を払う仕組みだ。(ただし、事前予約の場合は専用ゲートからそのまま入場できる)
正門前にデンと構える太陽の塔。中国道からチラ見するその姿に較べて巨大だ。入場の際は手前の円筒形のエレベーターで降りる。
(参考写真)※ネットより拝借しました。すっごい人の数。
万博当時は丹下健三設計の巨大な大屋根に囲まれていた。パビリオンは撤収されて、ひとりぼっちになってしまったが、今のほうが彫刻としての威容を感じられる。
その大屋根の遺構の一部がお祭り広場に残されていた。昔の写真を見ると、このお祭り広場は更に一段低くなっていて、埋め戻されたことが判る。
実は他にも見学したい施設は幾つかある。だが、太陽の塔の見学は時間予約制。なので後回しにすることに。
裏側に回り込むと…あら?もうひとつ太陽の顔が。《黒い太陽》と云って「過去」の象徴だとか。知らなかった…。
コンクリートに描かれたものではなく、造形物を張りつけている。ちなみに《黄金の顔》は「未来」、《太陽の顔》は「現在」を表している。
「どーして現在の顔はむくれているのち?」
詳しくは判らないけれど、1970年当時って、ベトナム戦争が泥沼化して、国内も70年安保闘争が激しさを増した頃だよね。万博のテーマが《人類の進歩と調和》であるのも、この事実と無縁ではないだろうし、まだ“政治の季節”だったんだよ。だから“怒れる現代人”という意味も含んでいたような気がするね。
「サルにはヘイケガニにしか見えん」
食べられないけどね。
入場15分前になっても遅々として進まない。ちなみに当日券は午後3時まで売り切れ。やはりネット予約がお薦めだ。そのうち混雑の理由が判った。1階までは撮影自由なんだけど、階段から先は500円払ってスマホを首から下げるカバーを借りないと撮影できない。その手続きに時間を要していた。早めの到着をお薦めします。
ということで無事見学スタート。
デザインを手がけた岡本太郎のコンテ図から。
ラフカットだね。円塔というコンセプトがまず決まった。
1箇月後には太陽の顔がたくさん描かれている。
更に2箇月後。現在のデザインにほぼ行き着いている。結構頭を捻らせたんだ。
かつての地下展示の再現ブース。岡本太郎のアイデアの源泉である縄文文化やアフリカ・アジアのプリミティブアートが展示され、おどろおどろしい音楽と原色のライトが呪術的ムードを醸しだす。
藝術は呪術である
岡本の言葉だ。
第四の顔《地底の太陽》だ。現物は行方不明(万博関連の展示物は行方知れずの物が多い)なので、原図から小さなモデルを興して、三次元スキャナーで実寸大の太陽を再現したそうだ。今の時代ならばこそだね。
10名ほどを1グループにして間隔をあけて案内される。入ってしまえば見学のスピードは自由だ。急かされることはない。
ちなみにEXPO'70当時の地下展示《過去:根源の世界》はこんな感じ。
《いのち》《ひと》《いのり》と三箇所に分かれていた。
人類がどのように地球上で生活してきて、この先どのように進んでいくのか。
その“未来”に暮らす僕らから見れば、劇的に変わったものは然程ない。電子製品は飛躍的に進歩し、情報産業という、当時ただの造語だった言葉が、中核的な産業の米を表すようになったことは事実だけど、人間同士が殺めあうという構図は、まったく変わっていない。岡本がこのパビリオンの中心に《いのり》を据えたことは慧眼だったと言えるんじゃないかな。
では順番になったので、塔の内部に潜入開始!
「やっと観られゆ」 けっこう待たされた
これはすごい!こんなものをよく創造したね。
「造ったことの方がすごくね?」
天上に伸びるのは高さ41㍍の生命の樹だ。取り巻く生物は古生代から現代に至る系統進化を表しているんだよ。
「よくできているにゃ~」
70年代当時のことを思えば、すごくチャレンジングな施設だよね。
取りついているのは三葉虫だね。樹の幹や枝は太陽の塔の血脈や神経も表しているそうだ。
原生動物からだんだん原始の魚類に進化していくね。甲羅で覆われた甲冑魚の仲間だね。
展示された生物は33種、183体。失われたり壊れたりしたものは、過去のデータを参考に再製作されている。
まさか内部が空間になっているとは知らなかった。
いよいよ恐竜の時代だな。
見下ろすとこんな感じ。確かにカバーで保護しないと撮影に夢中になって落としてしまう可能性大(笑)。
恐竜の造形にも昭和を感じるね。僕らが子供の頃の恐竜図鑑ではあんなゴジラスタイルだったもの。
この巨大なブロントサウルスも万博当時の現役組だ。つまり同じアラフィフ。
この真紅と群青の二色は岡本が好んだ配色。それは初期の油彩作品《痛ましき腕》にも通じる。
(参考)《痛ましき腕》(1936年/1949年)
「どっかで観たことある配色なんだよにゃ」 んーと
近鉄バファローズのユニフォームじゃない?あれも岡本デザインなんだよね。
「そっきゃ!」 納得した!
ちゃんと白骨もある。
いよいよ人類の夜明けだ。
見学者が登れるのはここまで。この上が《太陽の空間》。耐震補強工事によって鉄骨が増し組されたので少し狭くなったそうだ。かつてはドーム状に天井に伸びていたのだろう。
「人ちっちゃ!」
両腕は空洞なんだね。
当時は曲線曲げ加工ができなかったから、鉄骨の組み方も格子状だね。そしてすべてボルト接合。東京スカイツリーとの違いが歴然と判るよ。それでも三次元に綺麗に組み立てた所がすごい。職人技だ。70年当時はここにエスカレーターがついていて、そとの大屋根に出ることができたそうだ。
演出スコアも残っている。忠実に再現したそうだよ。
左腕には階段が残っている。
ちなみに大屋根の展示はこんな感じだった。
《未来:進歩の世界》だそうだ。フリップにも記されているように、安易なスペースオペラ的未来ではなく、むしろ混沌とした未来の預言のような展示だったそうだ。
そもそも太陽の塔は空中展示場への通路として計画されたって。知らんかった。
見学終了したらスタスタと螺旋階段で。
途中に建設の過程がパネル展示されている。
以上建設ドキュメントでした。
外に出た途端、見る間に黒い低層の雲が群がり始めた。こりゃ絶対降るよ。
「傘もってきて正解だったにゃ♪」
ところがである。
「むきゃー!なんか猛烈に降ってきた」💦
これ雹だよ。上空の大気が不安定なんだな。
ということで少し早いけれど園内のピッツェリアでランチすることにした。
「昼のビールはたまらんにゃ」 ぷひぃ~
ずっと飲んでるよね僕ら。連続飲酒更新中だよ。
「サルは平気だけど」 いたって健康だし
僕、尿酸値高いんだよね。
「じゃ、やめればいいじゃん」 サル無理強いしてない
この食事を前にして酒なしはないでしょ。
ランチを終えて出てみれば外は快晴に。その後も雨、晴れ、雨、晴れを繰り返す、なんとも不安定な一日だった。せっかく来たので、もう一箇所見学して帰ることに。
もし現代のデジタル加工技術がなければ、かつての塔内部のクリエーションをここまで完璧に再現できたかどうか。そう考えると、満を持してという言葉があるが、それは太陽の塔復活のためにある言葉のように思えた。
「もう一杯ワイン飲みたかったにゃ」 夜も飲むんだけどね
(つづく)
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