川端康成ゆかりの宿 湯ヶ島温泉「湯本館」(静岡県) | ひつぞうとおサル妻の山旅日記

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ひつぞうです。
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サルヒツの温泉めぐり♪【第123回】

湯ヶ島温泉「川端の宿 湯本館」

℡)0558-85-1028

 

往訪日:2021年8月7日~8日

所在地:静岡県伊豆市湯ヶ島1656-1

源泉名:西平泉 湯ヶ島29号

泉質:カルシウム・ナトリウム-硫酸塩温泉

浴場:大浴場・家族風呂・貸切露天風呂(同一源泉)

泉温:45.4℃

臭味:無味無臭

pH:?

その他:動力揚湯・非加水・無濾過・かけ流し

■営業時間:(IN)15時 (OUT)10時

■宿泊料金:18,000円 ※各種プランあり

■日帰り利用:12時~14時30分/1000円

■客室:5部屋

■駐車場:5台

≪日本秘湯を守る会会員≫

 

≪ひぐらしの声そそぐ雨後の湯の船≫

 

こんばんは。ひつぞうです。近県湯めぐり紀行の最後は湯ヶ島温泉です。とりわけ湯本館は多くの文人墨客に愛されたゆかりの宿。十三歳の折にひと夏を過ごした伊豆の想い出を重ねて、夏の盛りに訪れようと決めていた温泉町でした。

 

★ ★ ★

 

=伊豆と川端と私=

 

フローベルの小説のタイトルさながら、ひとそれぞれに、感情教育の舞台となった町、あるいは季節というものがある。また、川端康成は僕に「情緒」と「美」と「哀しみ」を教えてくれた作家だった。中学生になったばかりの僕は、叔父の招きで伊豆長岡の温泉街でひと夏を過ごすことになった。寝台列車で渡った初めての本州。僕はかなり昂奮していた。多比の海で魚を突き、狩野川の支流で川遊びをした。朝夕のまづめ時に鮎をおって長竿を振るう釣り師のシルエットが遠く見えた。そして、午後の驟雨のあとは、決まってひぐらしの涼し気な鳴き声が林間に降りそそいだ。その記憶は伊豆ゆかりの作家、川端康成の作品と、いつしか勝手に結びついていた。

 

川端康成(1899-1972)

(弟子の三島が愛猫家ならば師匠は大のワンコ好き)

 

川端康成『伊豆の踊子』の作者であることは知っていたが、三浦友和と山口百恵のコンビを思い浮かべると、ミーハーな恋愛小説に手を出すように思えてならず、書店の女店員に差し出す事ができなかった。そこでノーベル文学賞の対象となった『雪国』を読むことにした。作家が越後湯沢の温泉芸者に現を抜かす話である。ところが、これのなにがいいのかちっとも判らない。男女のドキドキする場面もなければ、嫉妬や浮気などのドラマもない。ただ、度々思い出したように投宿しては、煙草をふかして女と言葉を交わすだけである。

 

増村保造監督の名作映画「千羽鶴」(1969年)

 

諦めた僕は高校三年の時に『踊子』の頁を繰った。学生が踊子のストーカーとなる小説はやはり“面白い”とは思わなかったが、物語は判りやすく、描写の瑞々しさに惹かれた。その後『千羽鶴』『山の音』『古都』と読み進めるうちに、女たちの心に秘めた哀しみや情愛が、四季折々の美や、心理の比喩的描写とともに心を打った。そして、作品理解の補助線になったのが、増村保造監督の映画「千羽鶴」だった。特有のアンダーな色調と、体臭を感じさせる演出は、独り深夜番組帯で観たこともあり、十代の僕を昂奮させてあまりあった。古典の美はエロスと同衾している。乾いた端正な表現の裏側に、濡れた背徳の主旋律が奏でられていると知った途端、行間を想像で埋めつつ、昼夜を忘れて貪るように読み続けたのである。

 

「ほんとうに判っていたのち?」サル

 

何事も“判ってしまう”と面白くない。大人になった僕が川端作品を読むことはなくなった。だが、湯ヶ島で作家が過ごした日々を追体験したいという気持ちは衰えず、四十年が経過した今、ようやく叶えられることになった。

 

「気がすんだ?すっごく長かったけど…」サル

 

はい。一応これだけは触れておこうと。

 

★ ★ ★

 

月ヶ瀬で国道414号に合流した。狩野川沿いに走り続けるとポツポツ宿が見えてくる。そして、湯の道に逸れて暫く進むと、よろず屋の角に「湯本館」と右折を促す看板が小さく見えてきた。

 

 

なるほど。車一台が通れるだけの幅員しかない。その突き当たりに白堊の天守を模した湯本館があった。

 

 

午前中は颱風の気まぐれで、青空がまだ覗いていた。創業は明治5年。現在の建物は明治38年に建てられたものだそうだ。10部屋あるうち5部屋に絞っているという(女将さんから伺った話)。この白堊の城の裏側は和洋折衷の凝った造りになっていて、踏み込みつきの広めの部屋が配されているらしい。

 

 

おとなりには泉質抜群の共同浴場としてマニアに知られる「河鹿の湯」がある。残念ながらコロナ禍の今は地元組合員しか利用できなかった。

 

「コロナのばか!」サル

 

 

この二階が八畳の客室になっていて川端先生が愛顧した四畳半は右端にあたる。駐車場は手前の鉄筋屋根つきの一階部分。三次元的に直角に曲がる必要がある。ベンツSクラスだと苦しいかも。運転に自信のない人は誰かに見てもらおう。

 

「そういうオーナーは乗り慣れてるよ。ヒツと違って」サル

 

到着すると館主さんが現れて捕虫網を振るい始めた。なんでも今の季節は蚊が多くて大変だとか。確かに玄関前は藪蚊が夥しく飛び回っていた。しかも巨大!

 

 

ロビーには先生と親交のあった洋画家、根岸敬画伯の作品が幾つも掛かっていた。

 

 

おそらく根岸家から寄贈されたのだろう。画伯宛に送った先生の手紙が額装されていた。

 

 

日展招待の礼状のようだ。

 

“会場は(大盛況で)御作に出会うのも一苦労でしたが、作品が壁面の高い処にあって見良く、印象にとどめました。御尊屋に参って油絵を拝見しようと時々思いながら、その折を得ません。寒さにご注意なさってくださいませ”というようなことが達筆なくずし文字で書いてある。暦は十二月。根岸の住む秩父はそれは寒かっただろう。末尾に延岡と読めることから、川端先生が初めて脚本を書いたNHK連続テレビ小説「たまゆら」の取材旅行先から送ったものと推測される。

 

 

これは『伊豆の踊子』の初稿。新感覚派の同士、横光利一と上梓した「文藝時代」初出の作品。

 

これら貴重な品々がごく普通に陳列してある。

 

 

『踊子』の中で主人公の学生が踊子一行を眺める階段が小説そのままの姿で待っていた。

 

 

おサル、六段目だよ。主人公が座るのは。

 

「好きにすゆ」サル

 

 

階段をあがると客間に繋がる。

 

 

女将じきじきに案内してくれた部屋は牧水先生ゆかりの「やまざくらの間」だった!

 

1922年(大正11年)3月28日から4月20日にかけて湯本館に逗留した若山牧水はここで「山櫻の歌」二十八首を作り上げた。川端先生は歌聖牧水と偶然にも階段で擦れ違っているが、ただのみすぼらしい爺さんくらいに思って、あとから宿の婆さまから「あれが牧水さんですよ」と教えられて、しまった惜しいことをした、と思ったらしい。

 

 

襖をあけると…いいねえ!広縁つきの八畳間。

 

 

造りは往時のまま。襖、畳、障子は綺麗に手が入っている。確かに維持するには客室を限定しないといけないかもね。だから競争率の高いお宿なんだね。

 

「なかなか予約取れないもんにゃ」サル

 

 

角麻組子の繊細優雅な細工。

 

 

この欄間の意匠。「どこかで見たことある」と思った人はかなりの川端フリーク。

 

 

『伊豆の踊子』初版(金星堂・昭和二年刊)の化粧函のデザインに用いられている。ちなみに装丁を手掛けたのは舞台美術家・装飾デザイナーの吉田謙吉(1897-1982)。また『踊り子』の校正を担当したのが今は廃業した湯川屋で結核療養することになる梶井基次郎。梶井はこの湯ヶ島で名作『桜の樹の下には』を書いている。

 

 

さてさて。それでは温泉探検に繰り出そう!

 

=湯本館の特徴=

 

●文人ゆかりの老舗宿

・川端康成を始め、多くの作家、芸術家が贔屓にした老舗(資料ブースあり)

・外観、梁、天井など主要部材はそのままに客室は美しくリニューアル

・部屋数限定。静かに宿泊したい方にはうってつけ

 

●肌に優しい石膏泉

・ナトリウム、カルシウム、硫酸塩が豊富

・飲泉可能。飲み過ぎてお腹が緩い時などにどうぞ

 

●地産食材を使った美味しい料理

・今の季節ならば鮎。また名物イノシシ料理などが膳を賑わせる

・食事は離れの間でゆっくりと

 

=当館の温泉攻略法=

 

●浴場

・「露天風呂」「大浴場」(内湯)「家族風呂」(内湯)の三箇所

 ※展望檜風呂は部屋つきです

・泉質、源泉はすべて同じ

・露天風呂は洗い場なし

 

●温泉

・泉温45.4℃とやや熱いが(家族風呂以外は)浴槽面積が広いので使用位置では適温

・飲泉可能。ツルスベ系の美人の湯

 

●利用時間

・すべて24時間利用可能

・大浴場は20時~22時の間のみ男女入替え

・露天風呂はロビーに面したベランダに先客の履物がなければ自由に使える(目安30分)

・投宿後は日帰り客もこない。ゆっくり個室感覚で

 

●家族風呂

・鍵が開いていれば自由に使える

 

★ ★ ★

 

ということで、まずは大浴場で汗を流して、名物の露天風呂に入ることにした。家族風呂以外は日帰り客がいるのでバージン湯は期待薄だが、この日は颱風接近中で僕らが最初の客だった。

 

 

まずは大浴場へ。

 

 

すっごく綺麗。あの見苦しい「×マーク」が脱衣かごについていない。なんかほっとする。

 

=大浴場(男湯)=

 

 

泉温が高いせいか、浴場に入るとむわっとした蒸気に呑まれる(笑)。

 

「その蒸気が身体に良いんだよ~♪」サル

 

 

こーんなに広いのに貸し切り♪

内部は赤御影と大谷石の二色が映える。

 

 

析出物がこびりついているね。硫酸カルシウムでしょうな。飲んでみた。なんの味もしないが、前夜(自動販売機のチューハイを)しこたま飲んでしまったので、くだし気味のおなかに優しいかも。

 

「酒のない晩はつまらん」サル

 

それは判るけれど飲みすぎだよ(笑)。

 

 

女湯はこんな感じ。少し外装が新しくなっているね。

 

「今のお宿はね、女子うけしないとやっていけないのち」サル

 

そうだね。

 

=大浴場(女湯)=

 

 

こちらはやや狭い。装飾は赤御影と大理石。

 

 

成分表は御覧のとおり。典型的な芒硝石膏泉です。

 

=露天風呂=

 

では。当館の目玉、露天風呂へ。当然一番乗りである。

 

 

ベランダから階段を降りて中庭へ。

 

「蚊が入っちゃうからすぐ閉めてにゃ!」サル

 

 

てけてけ歩いていく。脱衣所発見。

 

 

「おう!すっばらしい!」サル

 

と思ったら本降りの雨になっちゃった。

 

「どうやって入るのちにゃ!」サル

 

傘さして入るしかないよね。

 

「そこまでして入るのうちだけだにゃ」サル

 

ほんとに間が悪いね。我が家って…。

 

 

結局暫く待って入りなおすことに。

(その夜大雨になり、翌朝の狩野川は茶色い濁流と化して溢れかえっていた…美しくないので撮ってません)

 

 

間を置かずしてヒグラシの大合唱が始まった。これだよ。僕が十三の時に出逢った音の風景。場所は船原温泉だったけれど。世話してくれた叔父さんの遠縁にあたるご夫婦も亡くなり、家も人手に渡ったって風の便りに聞いた…。

 

=家族風呂=

 

ということで最後に家族風呂でおサルの背中を流すことに。今回の旅行は僕からのバースデープレゼントなのよね。

 

「おう。三助のひつひつ、よろしく頼むだよ」サル

 

 

なんかこういう狭いところの方が落ち着く。にゃんこの気持ちがよく判るよ。

 

「前世はアナゴなごなんじゃね?」サル

 

そこまでひどくないけど…。

 

(イメージです 画像お借りました)

 

=文芸コーナー=

 

(牧水先生揮毫「旅情」)

 

それでは川端先生が常宿した四畳半の二階五号室に行ってみよう。

 

 

愛慕の念を込めて「川端さん」と名づけられた部屋。漆喰の色調が違うだけで全然泊っている部屋と趣きが異なるね。

 

 

先生直筆の揮毫が所せましと並ぶ。時にはつけ払いで二か月半も滞在したそうな。

 

「色紙…全部借金のカタかにゃ?」サル

 

む~。判らん。女将さんに訊くのも気が引けるし。

 

 

「二階に上ると渓流に向って八畳間が二つ、廊下の左側に六畳間が二つ、その外は木の扉で洋間まがいの一部屋洋間と背中合わせに四畳半の五号室、二階はこれら六室しかなかった。五号室だけは離れているものだから、長逗留の私はそこにゐた。」

(川端康成『伊豆の思い出』より)

 

この記述で、廊下側のひと間が(他の作家の原稿が掲示された)展示室にあてられていることが判る。それ以外は何も変わっていない。

 

 

桐箱に収められた『千羽鶴』の生原稿と、作中に出てくる志野焼の茶碗。先生は終生この原稿を大切にされたそうだ。他の作品と比べて世評はいまひとつだったが、思い入れはひとしおだったみたい。

 

 

六畳の資料室。ここは撮影NGなのでいくつかメモしたものをご紹介。いずれも短い。

(湯本館には滞在者用の「文芸日誌」なるものがあったようだ。)

 

「久しぶりで湯ヶ島に来た。急流の岩の上に座って私の子供のために川虫を探してくれた。梶井基次郎を憶ふ。」(昭和31年8月7日 廣津和郎)

 

宇野浩二と並ぶ貧乏私小説の“大家”。既に松川裁判で忙しくなっていた頃。骨休めの家族旅行だったのだろうか。最後の「梶井基次郎を憶ふ」がせつない。十歳年下だった梶井は三十歳で世を去り、自分はこうして子を得て六十の坂を越え、いまだ文筆業を生業にしている。時の過ぎるのは早い。そういう廣津の心情が伝わってくるようだ。人の世の無常を感じさせて余りある。

 

「毎年のように湯ヶ島に来たことになります。湯本館の入り口が昔のままで懐かしいです。私も今年でよわい八十八才になりました。百二十五才まで生きるというのが口ぐせです」

(昭和60年6月18日 宇野千代)

 

その廣津を湯本館に招いたのが、生涯にわたって浮名を流し続けた作家、宇野のお千代さんである。九十八歳の大往生だったが、当時八十八歳の誕生日を迎えたばかり。その二年前に刊行された傑作自伝『生きて行く私』(1983年)でも「私は死なない気がする」と書いていた。もし、男なら間違いなく恋するタイプだし、まず悉くふられただろう。そんな魅力的な“おばあちゃん”だった。

 

他にも感傷的左翼作家の椎名麟三や映画監督の五所平之助などの文字も見える。文字はいい。やはり人柄が滲み出る。今のようなパソコンで書かれた文字を、将来文学館で見てもまず感動などしないだろう。

 

 

その五所平さんこと五所平之助がメガホンをとったのが田中絹代主演の無声映画「伊豆の踊子」(松竹蒲田撮影所)。このスチールではポッと出の田舎娘にしか見えないが、写真が悪いだけで、田中さんは、女性の色気と気品を備えた稀有な女優だった。このとき二十四歳。少女の薫役には少し薹が立っている(失礼)が演技力で補っていた。だが、僕のベスト絹代は元娼婦の老女を演じて涙を誘った『サンダカン八番娼館 望郷』である。女性の美しさ愛らしさに年齢は関係ない。

 

「ぜんぜん温泉ブログじゃないにゃ」サル

 

このコーナーに20分は居たもので(笑)。誰も来なかったし。

 

=夕 食=

 

 

中二階の別室で。御簾でそれぞれ仕切られている。

 

 

いやあ、豪華だね!

 

以前の資料を見るといかにも「旅館の料理」然としたコースだったが、料理長が変わったのだろうか、委細は詳しく知らないが、明らかにスタイルが変わっている。

 

 

派手さないが、素材の良さ、新鮮さは、その艶で判る。

 

 

生しらす 鰹と紅大根 帆立の貝柱

 

旬ですな。以下すべての皿を掲載。

 

 

きくらげ 冬瓜 エシャロット 剝き海老 梅みそを添えて

 

彩、あしらい、器、すべて最高でした。

 

 

蛸酢

 

全ての料理において、様々な調味料が足されているが、食材の風味を台無しにしないよう、控え目な薄口のこしらえ。

 

 

つみれ汁

 

 

酒は牧水も嗜んだという天城を冷で。

 

 

焼き物

猪肉の陶板焼き

 

冷めないうちに頂こう。豚とは違う濃厚さ。

 

 

鮎の塩焼き 新生姜と刺身こんにゃくを添えて

 

これぞ湯ヶ島を代表する味。

 

 

夏野菜の煮びたし

 

 

氷菓子

ピングレ メロン ブルーベリーを添えたプディング

 

大満足だった。以前は旅館の料理って感じだったが、モダンなスタイルになっていたね。

 

=就 寝=

 

 

まだまだ宵の口。寝るわけないよね。

 

 

こうしておサルの夜は更けてゆくのであった。

 

=翌  朝=

 

 

ときをおき 老樹の雫おへるごと 静けき酒は朝にこそあれ 牧水

 

いくら何でも朝酒はね。牧水先生みたいに早死にはできない。まだまだやりたいことはあるし。

 

 

朝食も静岡、伊豆の食材で。

 

 

黒はんぺん クコの実 ワサビ漬け

 

 

ご飯のおとも

 

 

この卵焼きは絶品。ふわふわのトロトロ。そして甘すぎない。

 

 

これは珍しい。鮎の開き。

 

「頭から齧られるってよ」サル

 

ほんと?

(なんか僕の鮎は骨太だったみたい…喰えんあせ

 

「ひつじっぽ~い」サル

 

 

温泉あり。文学散歩あり。料理あり。そして時の経過を感じさせる建物あり。大満足のお宿だった。

 

とりわけ心に残ったのはスタッフの応対。派手さはなく、押しつけがましさもない。小さな旅の二人を最後まで見送る女将さんたち。バックミラー越しに挨拶を返して、僕らは再び箱根峠を目指していった。

 

「伊豆の踊子の物語は“秋”みたいだにゃ」サル

 

え?

 

(旅のスクラップ帳はこれにて終わりです)

 

ご訪問ありがとうございます。