梶井基次郎著『檸檬』を読む | ひつぞうとおサル妻の山旅日記

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ひつぞうの偏愛的読書【31】

梶井基次郎著『檸檬』(新潮文庫)

1967年改版(表題作1924年「青空」初出)

 

≪カバーデザインも人気に一役かった≫

※ひさびさに読書の備忘録です。興味のない方はスルーしてください。

 

こんばんは。ひつぞうです。今夜の一冊は三十一歳の若さで夭折した不世出の作家、梶井基次郎の作品集です。

 

(写真は全てネットより拝借いたしました)

 

梶井基次郎(1901-1932)。東京帝大文学部中退。抒情性をたたえた理知的な文体で「生」の不安を表した昭和初期の小説家。八人兄弟の次男として大阪に生まれる。会社員の父の転地に伴い、大阪、松阪、東京と輾転。漱石、藤村、そして、同時代の新感覚派の影響を受ける。結核と戦いながら、短い期間に二十数編の短編を残し、三十一歳の若さで亡くなった。

 

★ ★ ★

 

収録作品は以下のとおり。

※紙幅の関係で太字のみコメントを附しました。

 

『檸檬』(1924)

『城のある町にて』(1924)

『泥濘』(1925)

『路上』(1925)

『橡の花』(1925)

『過古』(1925)

『雪後』(1926)

『ある心の風景』(1926)

『Kの昇天』(1926)

『冬の日』(1927)

『桜の木の下には』(1927)

『器楽的幻覚』(1927)

『蒼穹』(1928)

『筧の話』(1928)

『冬の蠅』(1928)

『ある崖上の感情』(1928)

『愛撫』(1930)

『闇の絵巻』(1930)

『交尾』(1930)

『のんきな患者』(1931)

 

=梶井と『檸檬』をめぐる幾つかの記憶=

 

高校三年の春。県下でも指折りの名門校から赴任してきたベテラン国語教師は、それまでの受験テクニック中心の授業を突如否定した。凡そ文学センスとは程遠い似非教師たちは戸惑っただろう。師は“本物”の教師だった。お蔭で(そればかりが原因でもないのだが)文学に目覚めてしまった僕は、受験そっちのけで古典に惑溺するようになった。教師は詩や短歌の朗誦と、純粋に作家の残した文字だけを手掛かりに、問いを設けることに執心した。つまり、知識偏重の授業を否定したのである。生徒は皆虜になった。おかげで今でも清白の『安乗の稚児』や藤村の『小諸なる古城のほとり』を諳んじることができる。もちろん受験は落第した。

 

(春の小諸城址)

 

社会に出ることに遅れはとったが、それは今の僕を形成するうえで、かけがえのない一年だった。その教師が新しい作品を取り上げるときの癖として、必ず文庫あるいは単行本の初版を持参して、僕らの前に誇らしげに掲げては、作品への想いを語るのが習いになっていた。当時の現代国語の教科書には幾つかの“定番”があった。芥川の『羅生門』。中島敦の『李陵』。そして、梶井の『檸檬』。『檸檬』は京都時代の記憶に材をとった梶井が、自らのデビューを飾るべく、持てる技量と衒学的知識と感傷を総動員した作品と師は語った。そして「こんなゴリラのような顔をして、心は少女のように繊細なんだ」と加えた。ゴリラは余計だな、と、やはり自分の容貌に強いコンプレックスを抱いていた当時の僕は、当てつけられたかのような、複雑な気分になったことを覚えている。

 

「自意識過剰だのう」サル

 

授業は現代短歌に移っていたが、僕は新潮文庫の『檸檬』一冊を紀伊国屋に求めて、版画家・船坂芳助氏装丁による、清澄なエロティシズムが漂う、幾何学的にレモンを象ったカバー画に触れた。教師の説明によれば、「檸檬」という文字はただ「レモン」とするには軽薄すぎたタイトルを飾るため、音を「ネイ」と「モウ」に借り、そこに木偏を補った梶井の造字らしかった。

(※正確を期するために、今回改めて調べたところ、梶井以前にその語はあったらしい。どちらが正しいのだろう)

 

Yoshisuke Funasaka`S 豊穣のdouble‐meanning

 

それから三十年余りの月日が過ぎた。僕はただの中年になった。先日の湯ヶ島詣が思いのほか心に残ったことに気をよくして、天端が日に焼けた一冊を書棚から抜き出したのである。

 

「ようやくここまできたか」サル

 

そう。どうせあと十年も経てば「なんでこの本読んだんだっけ?」ってなるしね。備忘録よ。備忘録。

 

「『なんで玄関に来たんだっけ?』ってよく言ってるにゃ」サル

 

=作品について=

 

『檸檬』

“えたいの知れない不吉な塊りが私の心を始終圧えつけていた。焦燥と云おうか、嫌悪と云おうか-酒を飲んだあとに宿酔があるように、酒を毎日飲んでいると宿酔いに相当した時期がやって来る。それが来たのだ。”有名な書き出しで始まるこの一文を、梶井は何度書き直したことだろう。漱石を耽読して、ソラでも言えたという「梶井漱石」だが、この修辞はむしろ、その弟子の芥川-自意識と自己嫌悪に苛まれ続けた神経病みの作家-のようである(芥川にインスピレーションを受けていたことは、死の一年あまり前に書いた名篇『交尾』のなかで芥川の『河童』について触れている事からも推測できる)。

 

(芥川も長編は書けなかったが、筆致は怜悧なメスのようだった)

 

業病となった結核でも神経衰弱でもなく借金でもない。それらは結果であって、すべての原因はこの“不吉な塊り”にあるという。芥川が呪った“ぼんやりとした不安”と通底するその得体のしれないものは、玻璃のように鋭敏かつ繊細な知性を脅かした。しかしその一方で、彼は「健康」よりむしろ、壊れかかったような街、土塀や家並の崩れかかった路地に「美」を求めた。熱にうなされたように京都の街をさまよい、そして丸善にたどりつく。洋書洋品で溢れる丸善は、主人公の好んだ場所だったが、なぜかよそよそしい。彼は仕返しを企てるかのように、積み上げた色とりどりの画集の上に、買い求めた檸檬を乗せて、爆弾をしかけた犯罪者のように密かに姿を消す。…果たして、この「檸檬」とはなにか。美や健康、シンメトリー、豊饒、純粋。そうしたもの全てなのだろう。それは(彼が代表する)病魔、憂鬱、退嬰と激烈な化学反応を示す真逆の象徴だと云える。だが、もし爆破に成功したとしても、消失するのは「丸善」ではなく、彼その人であることに、まだ気づいていない。

 

『城のある街にて』

その計算に計算を重ねた“処女作”は、果たして全くと言っていいほど無反応だったらしい。梶井は落胆しただろう。そして、かつて過ごした松阪の町と、義兄夫婦の家族をモデルに小説を書いた。写生のような坦々とした筆致で、城跡から見た城下の市井の姿を。それは晩年の漱石の小品にも似ていて達観している。余裕がある。夫婦の幼い娘が、大人たちが油断した隙に川に流される挿話に、小説らしい緊張があって梶井は旨い作家なのだと感心した。

 

(今は石垣だけの松阪城址だが、城下を眺めるには最高の場所だった)

 

『泥濘』、『路上』、『橡の花』、『過古』、『雪後』は、1925年から1926年に書かれた京都時代から東京時代に至る、生活の一場面に材を得た心境小説である。梶井の憂鬱、澱んだ気持ち。唯一の心のよすがたる母親への鬱屈した心情。高校での二度の落第。同級生の目覚ましい活躍に比して、自分でも何をやりたいのか判らないという焦燥。そして、肥大した自意識ゆえの狼藉と放蕩。梶井は小説では客観視できても、実生活ではプライドが邪魔して自己コントロールできなかった。暗い座礁したような気持ちには恋愛への渇望といった形而下的なことが背景にあったのではないか。同級生の指摘にもあるように、梶井は面貌の醜さを諦めていた節がある。娼婦相手に男になっても恋愛はない。『雪後』では(チェーホフの短編に借りて)「若い男女の淡い恋ごころ」が描かれるが、それは梶井自身の「恋への恋」だったのだろう。

 

『冬の蠅』

動作が緩慢な冬の蠅を見て、梶井は一篇の小説を書いた。“私が最後に都会にいた頃―それは冬至に間もない頃であったが―私は毎日自分の窓の風景から消えてゆく日影に限りない愛惜を持っていた。”この表現は晩年の作品に頻繁に出てくる「窓」と「闇」の構図である。舞台は湯ヶ島の温泉宿。描かれる道筋の様子から宿は湯川屋と知れる。男は街燈を囲む闇を見つめる(この表現は『闇の絵巻』でも繰り返される)。いずれ自分も闇に呑まれていく。それは死のメタファーである。宵闇が迫る時刻に、気紛れに天城峠を乗り合い自動車で越えた男は、半島の先端の温泉宿まで“冒険”の旅に出る。それは敢えて自分を危険に曝す被虐の遊戯だった。数日間、空にした湯ヶ島の宿に戻ってみると、人の暖気を失ったせいだろう、蠅は死に果てたのか、どこまでも静かだった。

 

『ある崖上の感情』

“その崖の上へ一人で立って、開いている窓を一つ一つ見ていると、僕は何時でもそのことを憶い出すんです。僕一人が世間に住みつく根を失って浮草のように流れている”(164P)。覗きを愉しみにする男の話だが、男は根無し草であり、覗かれる各戸では、無関係に死や幸福のドラマが演じられる。物語は違っても主題は『冬の蠅』と同根である。

 

『交尾』

しかし、一番の傑作はこの最晩年の一篇かもしれない。猫の交尾を偶然目にしたことに始まり、湯ヶ島の磧で観察した河鹿蛙の恋の讃歌に終わる観察の眼。雄の美しい鳴き声に「ゲ、ゲ」と呑気に答える雌。求愛が実ったと悟ると雄は“するすると石を降りて”泳いで一心に雌の傍に寄っていった。主人公は、雄のなめらかな動きこそ美しいと感動する。生命の交歓は可憐で損なわれやすく、厳粛な行為ものだとして。…晩年の梶井の視線は、己ではなく「世界」に向けられていた。もう闇に呑まれゆく己にあるのではなかった。

 

(男はその小さな生き物の美声よりも更に美しいものをみつけた)

 

=読後閑話=

 

悲しいかな、『檸檬』以外の作品は99%記憶から消えていた。確かに活字を追うのに苦労した記憶がある。だが、今回は素直に面白かった。その理由を考えてみた。ひとつは九州の外を知らなかった僕のあまりに貧弱な想像力を、後に訪ねた-松阪、京都、伊豆、東京など-舞台となった町の情景が補い、理解を容易くしてくれたから。第二は、二人三脚で生きてきて、憂鬱、幸せ、不安など、生きるなかでの様々な実感を、手触りとして得てきたから。多分そうなのだろう。また、間違いにも気づいた。数十年抱き続けた梶井の「心境小説作家」というイメージは勝手な思い込みで、豊かな物語の紡ぎ手だった。『檸檬』に引き摺られ過ぎても詰まらない。少し違った読みがあってもいい。十年後が愉しみだ。

 

「今度は100%忘却してるんじゃね?」サル

 

(おわり)

 

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