ONLY ONE HEART 東北地方太平洋沖地震 緊急支援チーム  -4ページ目

2011年8月17日 女川 活動報告

2011年8月17日。今日は初めて訪れた場所、女川町です。
小乗浜、高白浜の二カ所で炊き出しを行い、横浦へは物資を持って行きました。


この町に入って先ず感じたのは、瓦礫と町を再生する為の資材を積んだ大型トラックの多さでした。
砂埃を舞い上げ、せわしなく行き来するダンプ。
その砂埃は天高く舞い、強い風に煽られ吹き飛んで行く。
大槌で見たあの巨大な砂埃を思い出しました。

瓦礫を積んだダンプと資材を積んだダンプがすれ違う。
その荷の違いを思うと悲しく、やるせない気持ちになった。

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女川では以前はギンザケ、ホタテガイ、カキ、サンマなどの沿岸漁業が盛んでした。
港には漁師さんが集まり、片付けなど一生懸命作業しています。
一日も早くこの場所で漁業を始められるようになる事を祈るばかりです。

それから忘れてはならないのは、この町には厄介なモノがあります。

女川原子力発電所。

「高台にあったため辛うじて津波の直撃を免れたものの、発電所を管理する宮城県原子力センターや
原子力防災対策センターは屋上まで冠水し、環境放射線監視システムが壊滅。
職員の多くも行方不明となったため、国や県に一時的に報告ができないという状態に陥いりました。」

最大波から15分ほど後に発生した強い引き波のときには、海水面が下がりすぎて
原子炉を冷却するための取水口が3- 5分の間むき出しになっていた可能性もあるという。
(Wikipediaより抜粋)

ここが福島第一原発のようになっていた可能性もあります。
もし、放射能が漏れ出すという事態に陥っていれば、復興なんて夢のまた夢だったかもしれません。
今もこの日本にはそういった危ない原発が数多くあります。

俺は9・19「さよなら原発 5万人集会」のデモに参加しましたが、
正直「たったの6万人しか集まらなかったのか」と思いました。
パレードで明治公園から甲州街道を歩き、新宿駅南口を通るルートでしたが、
この6万人が「少数派」と思える程、街には圧倒的な数の人が溢れかえり、日常を楽しんでいました。

「原発は安全です」と洗脳され続け、未だに安心だと思っている人や、興味すら無い人がいる。
この6万人はたしかに凄い人数ですし、所用で来れなかった人もたくさんいると思います。

ですが単位を変えると、東京ドームたったの一杯分。巨人が阪神と試合でもやればその人数が楽に集まる。

明治公園に軽く100万人くらい来て、どえらい騒ぎになって夜のニュースで
「原発に対する国民の関心の高さの表れ」なんて見出しを期待した。

新宿で見た日常を楽しむ人、デモに参加した人。

この人数差こそが、我々国民が原発に対して感じている「意識の低さ」なんじゃないかと思いました。

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さてさて、この日は仮設住宅での炊き出しです。仮設では初めての炊き出しになります。
ちょっとした会議室のような部屋をお借りして早速準備にかかります。

Mさんが忙しく走り回り、皆に支持を出し、守備良くうどんを作ります。

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12時を少し回り、皆さんはもう並んでいて、
「お父ちゃんが昼を食べに仕事から帰って来るから早くね~」とお待ちかねです。

ここからは、全員が力を合わせ、スムーズに一杯一杯のうどんを仕上げていく。
ケースケ達もすっかり慣れたようで、担当した場所を親子でガンガン切り盛りしていました。

東京から来たMさんの仲間達も汗びっしょりで動いていました。

押してしまったので最初は俺が最終仕上げと手渡しを担当していましたが、
3分の2ほど配り、バタバタが落ち着いた所でケースケ達に
「じゃあそろそろみなさんにうどんを渡してくれるかな」と、その場を託しました。

手渡しする時がここに住んでいらっしゃる方との唯一の接点でもあります。
そこに会話が生まれる。一言でもいいからその会話を多くして欲しかった。
その会話の中から何かを感じ取る筈だから。


しかし、おいしそうですよね~このうどん。
Mさんのアイデアにはいつも感心させられます。

区長さんも「うまいうまい」と食べてくださいました。
(写真は了解をもらっています)


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この小乗浜の仮設住宅では一人の男の子と出会いました。
5歳だったかな?人懐っこい子で最初から最後まで俺たちの傍にいました。

俺が外で一人つゆ作りをしていると、傍に来てよく話しかけて来た。
話しかけるというよりも、独り言の様に早口で色々な事を話している。

「僕は車が好きなんだ~」
「お?そうか?ちょっと待ってろな、ミニカー持って来てやるな。」
まいど号に乗っていたハマーのミニカーをその子にプレゼント。
「うわぁ~すごいね!ぼくとっても気に入ったよ!」

しばらくそのおもちゃで遊んでいたんだけど、またすぐ戻って来て
「おじさん、こないだも来て僕とお話した?」
「こないだは、あそこで(指をさしながら)ご飯作ってたよね?ね?」

俺が答えようとすると、もう次の話しをしている。
情緒不安定になっているようなそんな気がした。
俺はその子を見守りながらも作業を続け、時々抱きかかえて遊んだりしていた。

炊き出しが終わり、チーム全員が昼食を摂っているとそこに彼がやってきた。
「お?こっちおいで。一緒に食うか?」
「僕はもうお腹いっぱい。それより見て見て~」と一人で遊び始めた。

俺は一気に飯を食い、「ようし!」とその子と遊べるだけ遊んだ。

「僕ね、赤ちゃんの弟ができたんだよ!ねね!見に行こうよ!」

俺は困った。この子と遊んでいるのはいいけれど、家まで行くのは失礼だ。
だが彼は引かなかった。半ば手を引っ張られる様な形で彼の家に。
お母さんがちょうど居て、事情を話すと「どうぞどうぞ」と彼の弟を見せてもらう事に。
「すみません、すぐに失礼します」と家にあげてもらいました。
なんと双子の赤ちゃんで、スヤスヤと眠っていました。

震災後に生まれた命。

「この子達が大きくなるまでに、この町が復興出来ていれば」
お母さんはそう言っていました。
俺は「何かあったらここに電話下さいね。出来る限り力になりますからね」と
電話番号を書いたメモを手渡し、この家を出た。

そろそろ次の仮設へ向かう時間だ。担当の方に挨拶をし、俺たちはそれぞれの車に乗り込んだ。

駐車場からMさん達一台目が出る。二台目のケースケ達が出て、最後に俺が出ようとすると
遠くから叫ぶ声がした。

「ん?」と窓を開け振り返ると、さっきの男の子がフェンスによじ上り

「またきてねー!またきてねー!」

と、声を枯らして叫んでいた。

車に俺1人で良かった。

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9月11日、震災から半年経った日、出先だったMさんと合流し、花を添えに羽田の海に出かけたんだけど、
そこに突然ケースケからメールが届いた。

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「今、バンキシャで女川の仮設住宅が紹介され、あの男の子が出てます!」と。

そして、その時初めて、おばあちゃんと弟を亡くしていた事実を知った。

あの子がずっとじゃれて、俺たちから離れなかった理由がわかったような気がした。

きっと淋しくて悲しくて、それを紛らわす様にずっと話し続けていたんじゃないだろうか。

お母さんは双子の赤ちゃんで手一杯だ。

きっとあの子は分かってる。「僕がしっかりしなきゃ!」

あの小さな身体でそれを受け止めていると思うと...。

言葉にならないような悔しさ。あの津波さえなければ。

でもね、でもやっぱり「負けないでがんばるんだよ。」そう思いながら羽田を後にした。



物資を配り終えた帰り道、今朝来た道を戻ると地盤沈下により水が溢れ出していた。
地盤の沈下ですからね、満潮時にはこうして毎日水浸しになります。
この問題一つ取っても非常にやっかいな問題です。

町がすっかり綺麗に戻っていて、津波の爪痕すらも利用出来るほど、心にゆとりがある時期が来れば、
この冠水を利用できるアイデアもある。

例えば洒落たカフェなんかで、床は透明な強化アクリル。普段は透明な床下に綺麗な石などを並べておく。
椅子に座ってコーヒーを飲んでいて、満潮時刻になると足下に海水が来るみたいなさ。

現実的な話しをすると、女川では復興に向け壮大なプランがあると聞きました。
20メーター程の高台から順に住宅公共施設エリア、商業エリア、水産加工エリアと
町を完全に作り替えるという計画だそうです。

ですがこのプランでは元々住宅があったような場所は建築制限区域に指定されてしまいます。
建築制限がかかれば、例え自分の土地であっても勝手に建物が建てられない事になる。
そうなれば当然、そこに土地を持つ人とで話しはこじれてきますよね。

だが、こうして折り合いがつかないままだと復興が遅れてしまいます。
この復興の遅れは、どの町でもそうだと思いますが、人口の流出は免れません。
仕事も無い、家も無いでは生きてはいけませんもんね。

人口減少。そうなると、町を復興する意味がない。

これが今被災地で起こっている大きな問題のひとつでもあります。

復興復興と外から言うのは簡単ですが、当事者でなければその苦悩は計り知れません。

どこから手をつけていいかわからないのは瓦礫だけではなく、このような問題が山積みなんですね。


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最後に横浦の仮設へ物資を届け、帰りの時間を気にしながら、東京チーム、
アジュさんのリクエストで石巻の津田海苔店さんに立寄った。

今回の被災地での活動はこれで全て終了となります。

帰りの東北道のサービスエリアで帰る方向が違うケースケ達と挨拶をし、ここで別れた。
本当によく頑張ってくれました。ありがとう!お疲れさまね。

で、俺も出発しようとしたが、最後の最後に携帯を無くすというマヌケな事態が起き、
東京組の皆さんとも急遽ここでお別れする事に(笑)

Mさんが気遣ってくれ携帯探しに付き合ってくれました。

一つ前のSAが怪しいと、そこまで戻ると粉々に砕けたiPhoneを無事?発見。

そこから東京まで気合いを入れ直して運転し、東京に到着。

トラックからゴミ、プロパン、コンロ、調理機材一式などをおろして、Mさんに挨拶をして別れました。

でもって、俺はさらにここからトラックを返しに埼玉へ向かった。

朝5時、4日間全ての活動が完了!

さすがに疲れが出たようで始発電車に乗るも、いくつも最寄り駅を通過してしまいました(汗)


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まだまだ支援は必要です。

復興なんてしていない。

最後になりますが、南三陸のタカシがこんな事を話していた。

「変な表現ですけど、例えば募金をして頂くにしても、一回にドンと募金して終わるより

一日10円でいいから、毎日といいますか、定期的といいますか、長くしてもらいたいんです。」

1.000円募金するとしても、1.000円一回なら一日。毎日一円づつなら1000日いる。

タカシは「忘れられるのが一番怖いんです」と話した。

どうかお願いです。

忘れずに、自分の中でも風化しないように

時々でもいいので被災地の事を思い出して下されば幸いです。

ATSUSHI






2011年8月16日 石巻 活動報告

昨夜はタカシ達と別れた後、山道の路肩で仮眠を取った。
翌朝、すっごく人の良さそうなおじさんに声をかけられ起きた。
「あんた~気持ち良さそうに寝てっから起こさなかったけど、ちょっと中に入れてくんねえか?」
よく見ると、道路の工事中だったらしく、俺が車を停めた辺りが出入り口だったのだ!
「あ!すみません!今すぐどかします!」
車をどかした後お詫びに行くと、なんと30分も起きるのを待っててくれたらしいです。

いや~夜は全く見えなかったなぁ(汗
本当にすみませんでした。

おまけに水筒からお茶をコポコポ注いでくれて「あんたホラ、汗びっしょり」と、お茶までいただきました。
ちょっと汚れた水筒だったけど(笑)一気に飲み干し「ごちそうさまでした!一日頑張って下さい」
とお礼を言ってその場を後にしました。

人柄がよくて、東京では考えられないような出来事でした。

さて!東京組と待ち合わせしている石巻の道の駅「上品の郷」に向かう。
南三陸からスイスイと40分程で到着。ちょうどMさんが車から降りて来たので朝の挨拶。
スムーズに来れたようだけど、ドライバーさんが「かなり飛ばしてきた」との事。

ちょっと話しが横にそれます。

いつも思うのだけど、スピードを出す事って、決してカッコいい事では無い。
アクセルは誰でも踏めるけど、そのスピードが乗った車体を万が一の時に、
ブレーキでコントロール出来るんだろうか?と常々思う。

俺にはその自信はありません。だから飛ばさないし、安全運転に徹する。

有名なF1ドライバーでさえ高速時にトラブルがあれば
「私でも一般車では制御不能になるだろう」、そう述べている。

ましてや、他人様の命を乗せている。
「その人にとってはどうでもいい命」かもしれないが、
同乗者には家族や恋人や大切な人がいます。

その辺を本当に頭に叩き込んで運転して欲しいと切に願います。

それから、なぜこの「安全運転」を口酸っぱく言うかというと、

事故を起こせば東北に繋がる唯一の「命の道」を塞ぐ事になりかねない。

これは本当に勘弁してほしい。
だから、俺は飛ばし系のドライバーさんには「くれぐれも安全運転でお願いします」とお願いしています。
(大抵の場合ムっとされるから、本当はあんまり言いたく無いんだけどね)

事故の確率が増える人の運転パターン

スピードの出し過ぎ

車間距離をとらない

この2点です。思い当たる方は。どうか安全運転でm(_ _ )m

さて、話しを元に戻します。

さてさて、本日は大阪から和菓子職人ケースケ家族がやってきます。
彼らについては前回記事を参照して下さい。

ケースケにとっては念願叶っての被災地入りです。
緊張したような張りつめた顔をしていたのが印象的だった。
色んな思いを乗せここまでやってきたんだろう。

先ずは炊き出しの入り時間までを目一杯使うべく、急遽南三陸へ皆を連れて行きました。
ケースケ家族の車へ俺が同乗した。
限られた時間なので、町の事で補足しておいた方がいいと判断した事は説明したけど、
後はそれぞれが感じ取る事なので余計な事は言わないでおいた。

南三陸へ戻るとタカシと、後輩のユウキくんと合流。
ユウキくんは民宿「下道荘」を営んでいたが、やはり津波で流されてしまった。
が、彼は同じ場所でまた営業を再開すると言っていた。
真っ黒に日焼けしたその精悍な顔つきには「津波には負けやしない」という
強く逞しい決意が現れていました。

今さっき、タカシと電話をしたら地鎮祭が終わり、基礎工事が始まるとの事でした。
素晴らしい!
南三陸へ行った際は是非!ご利用下さいね。

新鮮料理とぬくもりの宿 下道荘

その後はタカシの案内で南三陸の現状を説明してもらいました。

それぞれが感じた事は、本人達のブログに詳細に書かれていますので、
是非一度、読んでみて下さい。

☆K-STREET☆

YOUR BIG FAMILY

さぁ、刻々と時間は過ぎる。タカシは夜の炊き出しに来るので、一旦ここでお別れ。
ここからは俺とMさん、それから残りの東京組と、ケースケ家族と別行動。
東京組、ケースケ達は石巻駅周辺の商店街に行き、俺はMさんと丹野さんのお見舞いに行った。
丹野さんは被災し避難所にいる時に、Mさんと知り合ったという。

今は仮設に一人で住んでいましたが、「丹野さん、具合が悪くなって集中治療室に運ばれたよ」
という事は、Mさんから聞いていました。
今回、ちょうど、個室に移ったとの事で顔を見に行きました。
病室へ入ると元気そうな顔で一安心。
丹野さんも久しぶりのMさんとの再会を喜んでいました。

楽しく会話をするも無情に時は過ぎ、あっという間に炊き出し時刻。

丹野さんと別れ、炊き出しに使う食材をスーパーへ急ぎ買いに向かいました。
蛇田中学校へ到着すると、毎度の事なんですが大慌てで準備。
こっからは戦争です。
タカシも家族を連れて合流。
それから前回も一緒に行動したアツミくんも、相変わらずの笑顔で合流。

「さぁ!頑張っていきましょう!」Mさんが声をかける。

ケースケ家族とMさんはもう一カ所の避難所の山下中学校へ、夏の香味野菜とわかめ、
豆腐などを入れた冷や汁とすもも、オレンジを持って移動。

どちらも夕飯はバッチリ間に合いました。


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学校を歩いていると、ふと目に止まったのがこの自転車。

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「お!名チャリだ!」
名チャリとは、名古屋で行われているプロジェクトで、
街なかの自転車をみんなで共有し、楽しく、健康的に街なかを移動するための
新しい自転車の使い方「コミュニティサイクル」
俺が付き合いをさせてもらってる方が関わったプロジェクトなので、よく覚えていました。
「そうかぁ、あの自転車がここで活躍してるんだなぁ。」なんか、嬉しかった。

夕食が終わり、喫煙所に居た人達に話しを聞きました。
そこで憤りを感じる見過ごせない話しを聞く事になった。
それは、この蛇田中学校に避難していた20歳くらいの若者の話しです。

俺が「仮設の申し込みは終わったの?」と訪ねたところ、

「僕の家は半壊か全壊かまだ役所から判定が出てなかったんです。
半壊なら直してまた住めるかもしれないじゃないですか?
で、判定を待っていたんです。すると最近ようやく判定が出て、結果は全壊。
もう住めません。だから仮設の申し込みに行ったんです。
すると、仮設の申し込み最終期限は過ぎましたので、もう受付は出来ませんと言われたんです。」

役所が、一番役所らしい仕事をした瞬間とでもいいますか。

当然彼は、役所の判定が遅かったと抗議しますが、「無理です」「終わりました」という対応。
彼は、仮設に入る事はもう出来なくなりました。
こんな対応は彼だけではなく、「様々な形で酷い目にあってる」方が沢山いると俺は思いました。

役所も多種多様な相談事で手が回らないんだろうが、あなた方はそれが仕事でしょう?
徹底的に告知し、認知率が100%の事案ならまだわかるが、
仮設申し込み期限がいついつ終了と全員が知っていたんだろうか?
それを「ハイ、決まりは決まりですから」では済まんて。
大変だとは思いますが、一件一件、柔軟で人間味ある対応をとるようにしてもらいたいものです。

さぁ!炊き出しが終わり、いよいよケースケ達のわらび餅を配ります。

直前に、Mさんから「ここは避難所に渡すだけしか出来ないなぁ」と言われました。
「そうなんだ?でも、それではケースケ達が実感できないから、ちょっと担当の方に掛け合ってくるね!」
と、ダッシュで担当の方に会いに行き「直接渡せませんか?」と頼んでみました。
するとあっさり快諾してくださいました。

避難所にも色々あって、物資を持って行っても最初は難色を示される場合があります。
ですが、(こうこうこういう理由で)ときちんと話しをすると快く受け入れてもらえます。

つまり、どこの誰が何を持って来たかハッキリしないものは怖いじゃないですか?
職員さんも忙しいので、そういう類いは後回しにされてしまうんだと思います。
また、すっかり疲れきっている職員さんが「面倒だなぁ」と思わないとも限りません。
だから、きちんと理由を伝えれば「それならば」とOKを貰えるんですね。

俺の仕事はここまで。

ここからは彼らの出番です!

皆さんがわらび餅を受け取りに来る。

それをケースケ、奥さん。ここちゃんが手渡す。

会話を交わしながら配って行く。

俺はその様子をちょっと離れた場所から見ていました。

ちょっと向こうにMさんも様子を見に来ていて、「配れてよかったね~」と話した。

俺も一安心。

よかったな!ケースケ!


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蒸し暑い避難所の中、このヒンヤリしたわらび餅は大成功だったと思います。
皆さん「おいしい、おいしい」と食べていましたよ。

後片付けをし、タカシ家族、アツミくんとはここでお別れ。
アツミくん、いつも支援金ありがとうな!


明日は女川。初めて行く場所です。
明日も頑張るぞと思いつつ、さすがに疲れが出て来たか、この夜は深く眠ってしまいました。

女川についてはまた後で書きますね。

お疲れさまでした!




2011年8月15日 南三陸 活動報告

実はこの町を訪れたのは、このブログに寄せられたひとつのコメントがキッカケでした。
そのコメントをくれたのは南三陸、志津川町出身のタカシ。

彼とは以前から知り合いだったが、このような形で再会する事になるとは夢にも思わなかった。

その後すぐにタカシに連絡を取り、色々な事を話した。


そして彼の実家は津波により全て流された事を知った。


タカシは「アツシさんが自分の町でもない場所に行き、活動されてるのを知って

他の町も大変だと知りました。そんな時に心苦しいし、本当に申し訳なく思うんですけど、

僕はなんとか地元の力になりたいんです。南三陸の事しか考えられないんです」そう話した。


その事に何か後ろめたさがあるとも話した。


俺は「そんな事あるもんか。俺だってタカシの立場なら、自分の町の事しか考えられないよ」

「でも、実際どうやって町の力になれるか考えてしまいます」

その言葉がキッカケになり

「じゃあ、南三陸で一緒に炊き出しをやろう!」という事になった。

そう答えるとタカシはホっとしたようで、声のトーンが明るくなった。

(何か出来ないか一生懸命方法を探してたんだろうな)と、すぐわかった。


そう話しをしたのが5月初旬の事でした。


残念ながら避難所閉鎖など問題があり、今回は炊き出しは叶わなかったけど、

たくさんの物資を持って行く事ができた。

彼の友人のマサキや、後輩で仮設に住むマコトを中心に、

近隣の方々にもたくさんの物資を配る事が出来ました。


タカシが強く、熱く地元を愛する気持ちが形になった瞬間だったと思います。


それと同時に、only one heart に皆さんが送ってくれた支援金が、この南三陸町でも、
生きたお金になり、こんなにも喜んで貰えた事を先ず、ご報告しておきます。


8月15日 快晴


昨夜の南相馬を終え、えのさわ君を東北道まで送り届けた後、
菅生PAまで走り、そこで一晩を明かした。
凄まじい雷雨の夜。
激しく車を叩き付ける雨音を子守唄に、眠りについた。

翌朝。快晴。

この日は塩竈から45号線を走り、松島、石巻を通りながら北上。
途中、東松島で半壊した住宅を片付け中の若い夫婦に声をかけ、
鍋、食糧、衣類などを手渡す事が出来ました。

お盆で45号線は大渋滞だったので先を急いだ。
三陸自動車道を走り、登米東和出口を降り南三陸方面へ走る。

いよいよ目的の町だ。南三陸に続く一本道、本吉街道。
緩やかな坂を下って行くと、突然、瓦礫の山が点々と見えてきた。

この時、俺は他の町では感じなかった違和感を感じた。
(この瓦礫は片付けられて、平地から持ってきたものか?)
それにしてはドッと集められている感じもない。

もしかするとここが津波の最終到達地点なのかもしれない。
そう思い、iPhoneで現在地をキャプチャーした。
その青く光っている部分が現在地地点で、そこから瓦礫が見え始めた。



俺が走って来た進行方向は下り坂だった。
(すると、津波がこの坂を上がっていったのか?)
そんな事を考えながら走っていると、今までの景色が突然一変した。





「やっぱり何もかも飲み込みながらこの坂を上がっていったんだ。」

この凄まじい光景とともに、改めて津波の威力を思い知らされた。

そしてテレビでよく見た志津川高校から撮影された映像が頭の中で蘇る。

思わず海と町に手を合わせました。




さて、タカシと久々の再会だ。待ち合わせ場所のコンビニに向かう。



そのコンビニは、いつも見るファミマの外観ではなく、仮設の店舗だった。



話しを聞くと「10日前から元気に営業再開しました!」と店員さんが話してくれました。




店内に入ると商品も充実。

あって当たり前だと思っていたコンビニ。

都内で無意味に乱立するコンビニは目にも止まらないけど、

このファミマは輝いていたよ。



この仮店舗の隣が元あった場所。基礎が剥き出しのままになっている。



タカシが到着する間、町を見渡す。

小さな町だけど、海があって、山があって、とても素敵な場所だ。
津波はこの町も、思い出も、命もさらってしまった。


この映像が何度も何度も頭の中で再生され続けていました。





ほどなくタカシが可愛い盛りの子供達と奥さんを連れて到着。
元気そうな顔でまずは一安心。
そして早速、持って来た品物を届けに行った。




パソコンスクールをやっているリエさんが「後日子供達に渡しますね」

とたくさん持っていってくれました。

その後、ツイッターのDMに子供達の嬉しそうな表情の写真付きで


お礼のメールがきました。

(写真はNGの為載せる事ができませんでした)





歌津の仮設住宅にも持って行きました。
最初はまばらだった人も、マコトの呼びかけでドンドン集まる。







みんな楽しそうに、思い思いに好きな物を選んでくれました。


おばあちゃんが「これ、うちのじいちゃんに着せるわよ」と選んだのは

関西PUNKSのマサシが作っているTシャツ。


背にドクロを背負ったバリバリのロックアイテムだけど、

おばあちゃんは嬉しそうに持って行きました。



この子が持っている巾着袋は子供用のお楽しみ袋。

川越ママサンズのちひろが全部縫って用意してくれた。

中身はハンカチ、ぬいぐるみ、シャボン玉、消しゴム、ポーチ、

水鉄砲、風船、縄飛び、クレヨン、うまい棒などなど。


本当はみんなに呼びかけて集めたかったんだけど、保管場所がままならず、集める事ができませんでした。


しかしツイッターで呼びかけた所、たくさんの方が協力してくれるという事で

次回また集める事ができるかもしれません。

その時はどうぞよろしくお願いいたします。


ほぼ完売したのを見届けて、あとはマコトにその場を任せ、

陽があるうちにタカシに町を案内してもらった。







その赤く染まった木は杉です。

タカシの話しでは松や竹はそうならず、杉だけ塩害により赤く変色したと言っていた。

つまりその高さまで波が来たという事ですよね。


帰る際に、給油のためGSに寄った。



歌津で三浦石油を営む三浦さん。




給油中、何気なく話しかけたら3・11に何があったかを話してくれました。

その時の凄まじい状況はこうです。


地震の後、津波が来ているのは分かっていた。

逃げようとしたら、すぐそこで人が動けずにいる。

俺は「逃げろ!逃げろ!」と叫んだけど、その人は足がすくんじゃって動けない。

その時、水はまだ、足のくるぶしくらいだったんだけど、水の威力は凄い。

で、俺はしばらくその人に気を取られてたんだ。


その時、さっき店から帰った息子がもの凄い勢いで戻ってきた。


「おやじー!!後ろを見ろおおお!!つかまれーーー!!!!!!!」


後ろを振り向くと、この店の上を津波が超えて来たんだよ!



「おやじーーー!!つかまれええええ!!!!」

息子の声にハっとして、とっさにバンパーに掴まり、

それを確認した息子は猛ダッシュで車を走らせた。

そして命からがら助かったんだ。


その時、流れ行く津波を見ると店のお客さんが車の中にいるまま

流されていったそうです。

「そのお客さん、私に手を振っていた。切ないだけじゃ言い表せない。」


そして私は一度死んだ命。もう何でもやってやるという気持ちで震災から二日後、この店を開けた。

ちょうど地下タンクも目一杯ガソリンがあったから海水がはいる余地が無かったのも幸いだ。

手ポンプで海水を出し、オレンジ色の綺麗なガソリンが出て来た時は嬉しかったねえ!

そこからこのタンクが無くなるまで町中の車に給油したよ。

もちろんお代なんかもらってないよ!全部無料だ。

後はもう店をやる為に、レジでもなんでもこの店の敷地内に流れてきたものは拾って使ったよ。


話しを聞きながら、三浦さんのガソリンで助かった命がたくさんあると思いました。


「まだまだ店はこんな感じだけど、俺は絶対にあきらめない。」

そう語った三浦さん。

貴重なお話をありがとうございました。

南三陸に行く事があったらどうぞ、三浦石油 歌津SSをよろしくお願いします。



「凄い体験談が聞けたな」そんな話しをしながら戻った。

途中、タカシが「私用なんですけど、会っておきたい奴がいるんすけどいいっすか?」

タカシは今回の震災で思う事があり、「いつでも会えるからまた今度」は止めたという。

俺もわかるな。(会える時は会っておこう)そう、人生を通して思っていたので、

二つ返事で了解し向かった。


その後、タカシがよく飲みに行っていたというに「食通 さとみ」に行った。

この店は元々、町の中心を流れる八幡川沿いにあったそうですが、津波で流失。

店主の真ちゃんが「みんなが集まれる場所を」と自宅を使い営業を再開したのだ。

「田舎の実家に帰ってきた」そんな感じで寛げる空間でとても居心地がよかった。

この件が河北新聞に載っていたのでリンクを貼っておくので是非、御一読ください。

食通さとみ 


仮設で残りの物資を配ってくれたマコト、タカシと今後の

南三陸の復興を祈願して飲んだ。

当然話題は震災の事。


そこでまたとんでもない話しを聞きました。

この店の店主である真ちゃんの震災当日のエピソード。


タカシがメールで詳しく書いてくれたのでそのまま転載します。


「真さんは、元々、南三陸町の社会福祉協議会という所で働いていて、老人福祉の担当でした。
震災当日、南三陸町の高野会館というところで、敬老会を開いており、その会の担当者でした。
敬老会が終了した直後に地震が来て、そこから役場へ走り、状況を確認し、


自分の子供の安否、自宅の状況も見ずに会館に戻り、そこにいた従業員、

老人の方々約400人を屋上に誘導避難させました。

津波は想像以上に高く、屋上まで届き、このままではまずいと、

更に上のボイラー室というか、機械室の中、更にはその上まで人を引き上げたそうです。

あまりにも情報が錯誤し、会館の方では状況を確認出来ていなかった為に、

もし真さんが戻らなければ、帰ろうとしている方や残った方々は津波に飲み込まれていたかもしれません。」


400人の命を救った真ちゃんは当時の様子をこう語っていました。

会館に戻って先ず400人を二階にあげたんです。すると一階のガラスがバリンと

割れる音がした。

「マズイと思って次は三階に」すると今度は二階のガラスが割れる音が。

そして急いでみんなを屋上へ上げたんです。

容赦ない津波は三階のガラスも割りました。

もう後が無い。そしてボイラー室のような場所にとにかく上げたんです。

でも波は膝まで達しました。

そこで波はその高さのまま止まったんです。

危機一髪。

きっと、この建物が4階、5階、いや天まで届かんばかりの

もっと高い建物であって欲しいと思ったんではないでしょうか。

3月。雪がまだ降る極寒の中、水に濡れたまま夜を明かしたそうです。

これはタカシが送ってくれた高野会館の写真です。



さらに消防隊員のマサキも不眠不休で活動をしたと話してくれた。

幼い子供達の命をいっぺんに奪った大川小学校やその周辺を担当し、

首まで水に浸かりながら捜索を続けたそうです。


さらに彼は「実は世間にはまだアップされてない映像があるので、

今日持って来ました」と言った。

早速見せてもらったんだけど、津波の一部始終がそこにはクッキリと映し出されていました。

人が飲まれ、車が飲まれ凄惨な事実がそこにはありました。

「これが津波か」そう思わせるのに、言葉より何より、

この映像一発で全てがわかる、そういった貴重な映像でした。


この映像は「是非使ってください」とマサキから許可を頂いたので、

9月25日、福岡の筑豊で行われるイベント「筑豊スピリッツ」で流す予定です。

ちなみにこの日はオンリーワンハートの為にブースを設けてもらえるとの事で、

今まで見て、聞いて、感じた事を話してきます。

その他、復興に向け頑張っている店の物産なんかも持って販売し、

そのままそのお店の収益として送金する予定です。

ブランクスのみんな、本当にありがとう!


マサキは更に土産として明石のタコより食通の間では有名な志津川のタコ、

そして毛ガニを持って来てくれました。



「アツシさんが来るって言うんで、震災前から取ってあった奴ですけど

持って来ました。どうぞ食べて下さい」

もうね、心で泣きました。



まだまだ、在宅避難をしてる人、仮設住宅に入った人。

みんな困ってます。

いつかこの町で炊き出しをやろうなとタカシと誓い、

最後に皆で写真を撮り、再会を誓って長い長い南三陸の夜は終わりました。


アップするのに時間がかかってしまったけど、正確に伝える為にこの時間が必要でした。

長文を最後まで読んでくれて本当にありがとうございました!


ATSUSHI