2011年8月17日 女川 活動報告 | ONLY ONE HEART 東北地方太平洋沖地震 緊急支援チーム 

2011年8月17日 女川 活動報告

2011年8月17日。今日は初めて訪れた場所、女川町です。
小乗浜、高白浜の二カ所で炊き出しを行い、横浦へは物資を持って行きました。


この町に入って先ず感じたのは、瓦礫と町を再生する為の資材を積んだ大型トラックの多さでした。
砂埃を舞い上げ、せわしなく行き来するダンプ。
その砂埃は天高く舞い、強い風に煽られ吹き飛んで行く。
大槌で見たあの巨大な砂埃を思い出しました。

瓦礫を積んだダンプと資材を積んだダンプがすれ違う。
その荷の違いを思うと悲しく、やるせない気持ちになった。

東北地方太平洋沖地震 緊急支援チーム ONLY ONE HEART

女川では以前はギンザケ、ホタテガイ、カキ、サンマなどの沿岸漁業が盛んでした。
港には漁師さんが集まり、片付けなど一生懸命作業しています。
一日も早くこの場所で漁業を始められるようになる事を祈るばかりです。

それから忘れてはならないのは、この町には厄介なモノがあります。

女川原子力発電所。

「高台にあったため辛うじて津波の直撃を免れたものの、発電所を管理する宮城県原子力センターや
原子力防災対策センターは屋上まで冠水し、環境放射線監視システムが壊滅。
職員の多くも行方不明となったため、国や県に一時的に報告ができないという状態に陥いりました。」

最大波から15分ほど後に発生した強い引き波のときには、海水面が下がりすぎて
原子炉を冷却するための取水口が3- 5分の間むき出しになっていた可能性もあるという。
(Wikipediaより抜粋)

ここが福島第一原発のようになっていた可能性もあります。
もし、放射能が漏れ出すという事態に陥っていれば、復興なんて夢のまた夢だったかもしれません。
今もこの日本にはそういった危ない原発が数多くあります。

俺は9・19「さよなら原発 5万人集会」のデモに参加しましたが、
正直「たったの6万人しか集まらなかったのか」と思いました。
パレードで明治公園から甲州街道を歩き、新宿駅南口を通るルートでしたが、
この6万人が「少数派」と思える程、街には圧倒的な数の人が溢れかえり、日常を楽しんでいました。

「原発は安全です」と洗脳され続け、未だに安心だと思っている人や、興味すら無い人がいる。
この6万人はたしかに凄い人数ですし、所用で来れなかった人もたくさんいると思います。

ですが単位を変えると、東京ドームたったの一杯分。巨人が阪神と試合でもやればその人数が楽に集まる。

明治公園に軽く100万人くらい来て、どえらい騒ぎになって夜のニュースで
「原発に対する国民の関心の高さの表れ」なんて見出しを期待した。

新宿で見た日常を楽しむ人、デモに参加した人。

この人数差こそが、我々国民が原発に対して感じている「意識の低さ」なんじゃないかと思いました。

東北地方太平洋沖地震 緊急支援チーム ONLY ONE HEART

東北地方太平洋沖地震 緊急支援チーム ONLY ONE HEART

さてさて、この日は仮設住宅での炊き出しです。仮設では初めての炊き出しになります。
ちょっとした会議室のような部屋をお借りして早速準備にかかります。

Mさんが忙しく走り回り、皆に支持を出し、守備良くうどんを作ります。

東北地方太平洋沖地震 緊急支援チーム ONLY ONE HEART

東北地方太平洋沖地震 緊急支援チーム ONLY ONE HEART

12時を少し回り、皆さんはもう並んでいて、
「お父ちゃんが昼を食べに仕事から帰って来るから早くね~」とお待ちかねです。

ここからは、全員が力を合わせ、スムーズに一杯一杯のうどんを仕上げていく。
ケースケ達もすっかり慣れたようで、担当した場所を親子でガンガン切り盛りしていました。

東京から来たMさんの仲間達も汗びっしょりで動いていました。

押してしまったので最初は俺が最終仕上げと手渡しを担当していましたが、
3分の2ほど配り、バタバタが落ち着いた所でケースケ達に
「じゃあそろそろみなさんにうどんを渡してくれるかな」と、その場を託しました。

手渡しする時がここに住んでいらっしゃる方との唯一の接点でもあります。
そこに会話が生まれる。一言でもいいからその会話を多くして欲しかった。
その会話の中から何かを感じ取る筈だから。


しかし、おいしそうですよね~このうどん。
Mさんのアイデアにはいつも感心させられます。

区長さんも「うまいうまい」と食べてくださいました。
(写真は了解をもらっています)


東北地方太平洋沖地震 緊急支援チーム ONLY ONE HEART

東北地方太平洋沖地震 緊急支援チーム ONLY ONE HEART

この小乗浜の仮設住宅では一人の男の子と出会いました。
5歳だったかな?人懐っこい子で最初から最後まで俺たちの傍にいました。

俺が外で一人つゆ作りをしていると、傍に来てよく話しかけて来た。
話しかけるというよりも、独り言の様に早口で色々な事を話している。

「僕は車が好きなんだ~」
「お?そうか?ちょっと待ってろな、ミニカー持って来てやるな。」
まいど号に乗っていたハマーのミニカーをその子にプレゼント。
「うわぁ~すごいね!ぼくとっても気に入ったよ!」

しばらくそのおもちゃで遊んでいたんだけど、またすぐ戻って来て
「おじさん、こないだも来て僕とお話した?」
「こないだは、あそこで(指をさしながら)ご飯作ってたよね?ね?」

俺が答えようとすると、もう次の話しをしている。
情緒不安定になっているようなそんな気がした。
俺はその子を見守りながらも作業を続け、時々抱きかかえて遊んだりしていた。

炊き出しが終わり、チーム全員が昼食を摂っているとそこに彼がやってきた。
「お?こっちおいで。一緒に食うか?」
「僕はもうお腹いっぱい。それより見て見て~」と一人で遊び始めた。

俺は一気に飯を食い、「ようし!」とその子と遊べるだけ遊んだ。

「僕ね、赤ちゃんの弟ができたんだよ!ねね!見に行こうよ!」

俺は困った。この子と遊んでいるのはいいけれど、家まで行くのは失礼だ。
だが彼は引かなかった。半ば手を引っ張られる様な形で彼の家に。
お母さんがちょうど居て、事情を話すと「どうぞどうぞ」と彼の弟を見せてもらう事に。
「すみません、すぐに失礼します」と家にあげてもらいました。
なんと双子の赤ちゃんで、スヤスヤと眠っていました。

震災後に生まれた命。

「この子達が大きくなるまでに、この町が復興出来ていれば」
お母さんはそう言っていました。
俺は「何かあったらここに電話下さいね。出来る限り力になりますからね」と
電話番号を書いたメモを手渡し、この家を出た。

そろそろ次の仮設へ向かう時間だ。担当の方に挨拶をし、俺たちはそれぞれの車に乗り込んだ。

駐車場からMさん達一台目が出る。二台目のケースケ達が出て、最後に俺が出ようとすると
遠くから叫ぶ声がした。

「ん?」と窓を開け振り返ると、さっきの男の子がフェンスによじ上り

「またきてねー!またきてねー!」

と、声を枯らして叫んでいた。

車に俺1人で良かった。

$東北地方太平洋沖地震 緊急支援チーム ONLY ONE HEART

9月11日、震災から半年経った日、出先だったMさんと合流し、花を添えに羽田の海に出かけたんだけど、
そこに突然ケースケからメールが届いた。

$東北地方太平洋沖地震 緊急支援チーム ONLY ONE HEART


「今、バンキシャで女川の仮設住宅が紹介され、あの男の子が出てます!」と。

そして、その時初めて、おばあちゃんと弟を亡くしていた事実を知った。

あの子がずっとじゃれて、俺たちから離れなかった理由がわかったような気がした。

きっと淋しくて悲しくて、それを紛らわす様にずっと話し続けていたんじゃないだろうか。

お母さんは双子の赤ちゃんで手一杯だ。

きっとあの子は分かってる。「僕がしっかりしなきゃ!」

あの小さな身体でそれを受け止めていると思うと...。

言葉にならないような悔しさ。あの津波さえなければ。

でもね、でもやっぱり「負けないでがんばるんだよ。」そう思いながら羽田を後にした。



物資を配り終えた帰り道、今朝来た道を戻ると地盤沈下により水が溢れ出していた。
地盤の沈下ですからね、満潮時にはこうして毎日水浸しになります。
この問題一つ取っても非常にやっかいな問題です。

町がすっかり綺麗に戻っていて、津波の爪痕すらも利用出来るほど、心にゆとりがある時期が来れば、
この冠水を利用できるアイデアもある。

例えば洒落たカフェなんかで、床は透明な強化アクリル。普段は透明な床下に綺麗な石などを並べておく。
椅子に座ってコーヒーを飲んでいて、満潮時刻になると足下に海水が来るみたいなさ。

現実的な話しをすると、女川では復興に向け壮大なプランがあると聞きました。
20メーター程の高台から順に住宅公共施設エリア、商業エリア、水産加工エリアと
町を完全に作り替えるという計画だそうです。

ですがこのプランでは元々住宅があったような場所は建築制限区域に指定されてしまいます。
建築制限がかかれば、例え自分の土地であっても勝手に建物が建てられない事になる。
そうなれば当然、そこに土地を持つ人とで話しはこじれてきますよね。

だが、こうして折り合いがつかないままだと復興が遅れてしまいます。
この復興の遅れは、どの町でもそうだと思いますが、人口の流出は免れません。
仕事も無い、家も無いでは生きてはいけませんもんね。

人口減少。そうなると、町を復興する意味がない。

これが今被災地で起こっている大きな問題のひとつでもあります。

復興復興と外から言うのは簡単ですが、当事者でなければその苦悩は計り知れません。

どこから手をつけていいかわからないのは瓦礫だけではなく、このような問題が山積みなんですね。


東北地方太平洋沖地震 緊急支援チーム ONLY ONE HEART

東北地方太平洋沖地震 緊急支援チーム ONLY ONE HEART

東北地方太平洋沖地震 緊急支援チーム ONLY ONE HEART

東北地方太平洋沖地震 緊急支援チーム ONLY ONE HEART

最後に横浦の仮設へ物資を届け、帰りの時間を気にしながら、東京チーム、
アジュさんのリクエストで石巻の津田海苔店さんに立寄った。

今回の被災地での活動はこれで全て終了となります。

帰りの東北道のサービスエリアで帰る方向が違うケースケ達と挨拶をし、ここで別れた。
本当によく頑張ってくれました。ありがとう!お疲れさまね。

で、俺も出発しようとしたが、最後の最後に携帯を無くすというマヌケな事態が起き、
東京組の皆さんとも急遽ここでお別れする事に(笑)

Mさんが気遣ってくれ携帯探しに付き合ってくれました。

一つ前のSAが怪しいと、そこまで戻ると粉々に砕けたiPhoneを無事?発見。

そこから東京まで気合いを入れ直して運転し、東京に到着。

トラックからゴミ、プロパン、コンロ、調理機材一式などをおろして、Mさんに挨拶をして別れました。

でもって、俺はさらにここからトラックを返しに埼玉へ向かった。

朝5時、4日間全ての活動が完了!

さすがに疲れが出たようで始発電車に乗るも、いくつも最寄り駅を通過してしまいました(汗)


東北地方太平洋沖地震 緊急支援チーム ONLY ONE HEART

東北地方太平洋沖地震 緊急支援チーム ONLY ONE HEART

東北地方太平洋沖地震 緊急支援チーム ONLY ONE HEART

東北地方太平洋沖地震 緊急支援チーム ONLY ONE HEART

東北地方太平洋沖地震 緊急支援チーム ONLY ONE HEART

東北地方太平洋沖地震 緊急支援チーム ONLY ONE HEART

東北地方太平洋沖地震 緊急支援チーム ONLY ONE HEART

東北地方太平洋沖地震 緊急支援チーム ONLY ONE HEART

東北地方太平洋沖地震 緊急支援チーム ONLY ONE HEART

東北地方太平洋沖地震 緊急支援チーム ONLY ONE HEART

東北地方太平洋沖地震 緊急支援チーム ONLY ONE HEART

まだまだ支援は必要です。

復興なんてしていない。

最後になりますが、南三陸のタカシがこんな事を話していた。

「変な表現ですけど、例えば募金をして頂くにしても、一回にドンと募金して終わるより

一日10円でいいから、毎日といいますか、定期的といいますか、長くしてもらいたいんです。」

1.000円募金するとしても、1.000円一回なら一日。毎日一円づつなら1000日いる。

タカシは「忘れられるのが一番怖いんです」と話した。

どうかお願いです。

忘れずに、自分の中でも風化しないように

時々でもいいので被災地の事を思い出して下されば幸いです。

ATSUSHI