「慶喜のカリスマ 」
野口武彦 (のぐち・たけひこ 1937~)
株式会社講談社 2013年4月発行・より
ついでながら、慶喜のあまた ある妻妾たちのあいだで特筆すべきなのが、江戸の侠客新門ノ辰五郎の娘お芳である。
新門 辰五郎(しんもん たつごろう、寛政12年(1800年)? - 明治8年(1875年)は、江戸時代後期の町火消の頭であり、いわゆる侠客である。
娘の芳は江戸幕府15代将軍・徳川慶喜の側室。 ~ wikipedia
辰五郎については、「元治元年三月、公が禁裏御守衛総督に任じられた
とき、京都は争乱直後で治安が悪かったので、公は黒川嘉兵衛の意見にしたがい、江戸の侠客新門辰五郎を召して、皇居と二条城の防火に従事させた。
九月、子分二百人を率いて上京し、いつもは土工監督として警衛に当った」 (『徳川慶喜公伝』第三十五章)という記録がある。
黒川 嘉兵衛(くろかわ かへえ)は、江戸時代末期(幕末)の武士(旗本)。
文久3年(1863年)一橋家に用人見習として取り立てられ、翌文久4年(1864年)には番頭兼用人となり、以後は一橋家家老・平岡円四郎らとともに徳川慶喜の政治活動を補佐した。
慶応2年(1866年)にいったん失脚して一橋家を致仕したが、慶応4年(1868年)再び慶喜に仕え、鳥羽・伏見の戦いに敗れて謹慎する慶喜の助命嘆願のために上洛し、同年2月には目付となった。
晩年は京都で過ごした。
下田奉行のころ、黒船に乗りこんで密航を企てた吉田松陰を尋問したことでも知られる。 ~ wikipedia
おそらくこのとき、黒川嘉兵衛あたりが口利きをして、お芳が妾奉公に上がったのであろう。
父親の採用はむしろ娘のコネによったものか。
江戸町火消を組の統領たる経歴を生かし、慶喜の私設顔役としてプチ権力を揮ったのである。
この辰五郎が徳川家の馬標(うまじるし)を江戸にもちかえる話はいずれ後段。
馬印(うまじるし)は、戦国時代の戦場において、武将が己の所在を明示するため馬側や本陣で長柄の先に付けた印。馬標、馬験とも書く。
~ wikipedia
お芳はやがて将軍になった慶喜の後宮にも新風をもたらしたのである。
将軍の日常生活がどんなに煩瑣(はんさ)なものだったかは、次のような慶喜の談話からも知られる。
「文久二年の改革前までは何事も手重(ておも)で、たとえば将軍
家が厠に行かれるにも、数十人がお供し、一人は水を取り、一人
は手水盥(ちょうずだらい)を持ち、一人は手拭いを捧げるというよ
うな有様だったのだが、厠くらいはお一人で行かれるのがよろしか
ろうというので、二年よりはお一人の事となり、稀にお供申す者が
あっても、一人ぐらいにするように改め、そのほか万事を簡便に
改正したのに、文久三年になったらまた元の手重に復し、厠のお
供が百人にもなってしまったよ」 (『昔夢会筆記第二十三』)
お城のトイレですらこんな具合であるから、ましてや将軍の閨房に至ってはもっと やかましかった。
江戸城の大奥に 「御添寝」 という奇怪な風習があったことはよく知られている。
まず寝所の中央に将軍の将軍の蒲団を敷き、その右に御用の御中﨟の蒲団を、さらに将軍の左には少し離して御添寝の御中﨟の床を、また御用の御中﨟の右に御坊主の床をのべる。
御用の御中﨟と御坊主は将軍に背を向けて伏し、将軍のほうを見ることを許されなかったとともに、眠ることもできなかった。
こうして将軍の寝所には、四人がいっしょに横になることになるというものである。(高柳金芳(たかやなぎかねよし) 『江戸城大奥の生活』 )。
慶喜が将軍になったのは、文久の制度改革が旧に復して以後のことであるから、この風習も昔どおりに復活した。
だが、お侠(きゃん)な江戸娘であるお芳はこんな慣習にしたがおうとしなかった。
最初の晩、慶喜との寝所に添寝役の御中﨟と御坊主が (とはいっても、頭を剃って男装しただけの女である) がごそごそ入りこんで来たのに、いきなりタンカを浴びせた。
「なんだい、おまえさんたち。人の濡れ場を覗こうってのかい?厭らしいったらありゃしねえヨウ」
御添寝の二人は ほうほうの体で退散した。
猿沢池付近にいた子鹿 12月10日