江戸時代の民衆の鉄砲の保有数 | 人差し指のブログ

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『 鉄砲と日本人 「鉄砲神話」 が隠してきたこと 』

鈴木眞哉 (すずき・まさや 1936~)

株式会社洋泉社 1997年9月発行・より

 

 

 

 貞享(じょうきょう)4年(1687)将軍綱吉の時代に行われた 「諸国鉄砲改め」 は画期的なもので、これによって公領、私領を問わず、(鳥獣から畑を守る) 威(おど)し鉄砲、猟師鉄砲などを除いては保有できなくなったと

されるが、このときの状況を見ると仙台藩領3984挺、尾張藩領3080挺以上、長州藩領4158挺という具合で大変な数の鉄砲が民間にあったことがわかる。

 

徳川綱吉の時代、貞享4年(1687年)の諸国鉄砲改めにより、全国規模の銃規制がかけられた。

武士以外の身分の鉄砲は、猟師鉄砲、威し鉄砲(農作物を荒らす鳥獣を追い払うための鉄砲)、用心鉄砲(特に許された護身用鉄砲)に限り、所持者以外に使わせないという条件で認められ、残りは没収された

この政策は綱吉による一連の生類憐れみの令の一環という意味も持ち、当初は鳥獣を追い払うために実弾を用いてはならないとするものだった。それでは追い払う効果が得られず、元禄2年(1689年)には実弾発射が許された。諸藩は幕府の指令に従って鉄砲を没収あるいは許可し、その数を幕府に報告するよう求められたが、綱吉の死とともに幕府の熱意は薄れ、報告義務はなくなった

とはいえ銃統制そのものがなくなったわけではなく、幕府・諸藩に許可された鉄砲以外は禁止するという制度が形骸化しつつも幕末まで続いた

諸国鉄砲改めの時もその後も、同一地域内でも村によりかなりのばらつきがあるものの、領内の百姓所持の鉄砲数が武士の鉄砲数をはるかに上回るような藩が多くあった

それでも民衆層は鉄砲を争闘に用いることを自制し、たとえば百姓一揆打ち壊しに鉄砲を持ち出すことはなかった

幕末には対外防衛の必要から規制が緩和され、広島藩など一部の藩では大量の鉄砲の存在が確認された。この増加が緩和による鉄砲数の実際の増加なのか、隠し持っていた鉄砲の顕在化なのかについてはなお議論がある。  ~wilipedia

 

 

紀州藩では元禄(げんろく)六年(1693)に調査を行っているが、さすがかつて鉄砲で鳴らした土地柄だけのことはあって、8013挺と他領に比べてひときわ大きな数値が出ている。

 

 

猟師鉄砲3893挺、威し鉄砲3011挺が主なものだが、密猟が発覚するなどして没収されたものも856挺に及んでいる。

 

 

 

 もともと鉄砲改め令はすべての鉄砲の没収を目的としたわけではないし、それ自体が綱吉が死ぬと事実上撤回されてしまったから、依然として民間には大量の鉄砲が保有され続けた。

 

 

宝永(ほうえい)八年(1711)一月の対馬(つしま)藩の調べによると1402挺の鉄砲があり、うち1158挺は民間で調えたもの、244挺は官から渡したものであり、ほかにすでに破損してしまっているものが96挺あったという。

 

 

対馬は野獣の害に悩まされていたところだから多かったのだろうが、それにしても村々の二十歳から六十歳までの壮丁約3900人に対して、これほどの鉄砲があったのだから驚異とすべきだろう。

 

 

 これら表面に表れたもの以外に、ひそかに保有されているものがきわめて多かった。

 

 

将軍家のお膝元である関東地方では、幕末までずっと鉄砲改めは行われていたが、届け出られたものより、もぐりで保有されているものの方がずっと多かったことは、旧幕府代官手代で八州廻(まわり)代官の下にも付いた人が維新後にはっきり証言している。

 

 

江戸時代の日本人は鉄砲を捨てた などという見方がいかに皮相で事実から遠いかは明らかであろう。

 

 

 二百数十年間、日本人が鉄砲を忘れていたという とんでもない誤解は、いったい どこから生まれてきたのだろう。

 

 

まず考えられるのは、豊臣秀吉の 「刀狩り」 政策を徳川政権も引き継ぎ、厳重な統制を行っていた という思い込みが あるからだろう。

 

 

秀吉の刀狩り自体が民衆の完全非武装化をもたらしたわけでなかったことは、すでに学者によって指摘されているとおりなのだが、イメージばかりがひとり歩きしてしまったのかもしれない。

 

 

 たしかに江戸幕府も鉄砲の統制を怠っていたわけではない。

 

 

綱吉将軍時代の諸国鉄砲改め令などはその最たるものであるし、それ以外にも江戸十里四方の鉄砲は収公(国家や幕府が没収すること)するとか、表面だけをみれば きわめて厳しい取締りが行われていた。

 

 

しかし、届出制にせよ許可制にせよ公然と鉄砲を保有できる道は終始残されていたし、江戸の近傍においてさえ依然ととして多数の鉄砲がひそかに保有されていたことは、取締側が認めているとおりだった。

 

 

 

 

                        12月10日の猿沢池付近