「 幕末百話 」
篠田鑛造 (しのだ こうぞう 1871~1965 報知新聞記者)
角川書店 昭和51年4月発行・より
申すまでもありません。 昔の商人は、ひとくちに素(す)町人と呼ばれ、
侍衆には頭があがらない。
まかり間違うと人斬包丁で脅かされ、あんな圧政な、頭のあがらない時代も ないもんでした。
それに、中間(ちゅうげん)なんかが無理無心。 手がつけられないのです。
(中間=武士の最下級)
当今のお時節とは雲泥万里の差(ちが)い。 こうなくてはなりません。
おなじ人民ですもの。
ところで私というものが侍に危なく斬(ら)れかかった。
今でもぞッとする事があるんです。
まァ聞いて下さいまし。
文久(1861~1864)の頃です。 ある晩の事、四谷(今は金杉に住みますがその頃牛込です)の親戚に呼ばれまして御馳走になり、ほろ酔い機嫌で、四谷大通りを夜のかれこれ十二時近く、帰ってまいると、あとから石をコツンと蹴ってよこす者がある。
振返って見ると、お侍が三人、大小(りゃんこ)が六本だ。
五体(そうみ)がぞッとして肉がしゃちこばって、足が進まなくなりました。
四人(原文ママ)の侍はバラバラと私を取巻いて
「無礼な奴だ。石を足蹴(あとげ)にいたしたな」 と言うんです。
「ど、どういたしまして、さようの無礼を素町人の分際でいたしてよいものでございましょう」 と詫入れば、
「黙れ、このほうの臑(すね)に中(あた)ったぞ」。
嘘ばっかりいうんです。
もうこの時は一人の侍、私の襟首を捉え、一人は手を押えているんです。
やッ試斬りだなとおもった時のひやッとした心持、胸はドキドキッと動悸(どうき)の早鐘、蒼(あお)くなって震えあがっちゃったんです。
気も遠くなりまさア。耳の辺では何かガヤガヤいうから、はッと思うと 「君、危ない 危ない、手を除(ど)け給え、手を・・・・手が邪魔だ」
この早口の言葉、いまだに耳の奥に残ってるような気がしますよ。
つまり一人の侍がスパリ斬(や)ろうとするんだが、襟首を押えている侍の手が邪魔になるという一刹那、私はこれに気づいて愕(おどろ)くまい事か、もう無我夢中、体にあるだけの力を出して、斬(や)ろうとする侍に衝きあたり、やにわに抜きかけた刀を引(ひ)ん掠(もぎ)って、担ぐが逸いか、何がなんだか一切夢中で駆出す、逐駆ける。
町人の悲しさ、うまく相手の刀を奪いながら、刃向うどころか、担いで逃出し、御濠端を高力松(こうりきまつ)の下から市ヶ谷八幡のところまで逃げおわせたが、呼吸(いき)が切れて死にそうで、あの八幡下の泥溝(どぶ)(今でもありましょう)・・・・・彼溝(あすこ)の下へ潜り込んでしまったんです。
・・・・実に命からがらとはああいう時の事なんでしょう。
彼溝(あすこ)の奥の方へ入っていると、三人の侍も追いかけて来て、「なんでもこの溝の辺りで居なくなった」。
「いや八幡へ逃込んだろう」 と言っている時の心持ったら、南無八幡大菩薩(なむはちまんだいぼさつ)でした。
泥溝の裡(なか)へ長い物干竿(ものほしざお)を突込んで掻廻したりしたんです。
「どうも八幡だ」 と、往った時の嬉しさは忘れやしません。
夜がほのぼのと明けたから、ノソノソ匐出(はいだ)したが、今まで気がつきません。
犬や猫の死骸の溜まってる臭さ、鼻をもがれるよう、匐出すんでわかりましたよ。
恐いと思うと何も知らんもんですね。・・・・やっと這出した。
通りかかった人々、何だと思って寄って来ましたから、前夜(ゆうべ)の話をすると、いずれも私の幸運を祝してくれました。
きっと辻斬りに違いない。
そうした機転は出ぬものだと褒められました。
家へ帰ると家ではまた前夜(ゆうべ)帰らぬとて、親戚との往復なんかあって、騒ぎなんでした。
・・・・まあ めでたい、命拾いだてんで赤飯を焚いたんですが、なんと物騒なものでしょう。
「手を・・・手を」 と言った時押えた侍が一刻逸(いっときはや)く手を引いて御覧(ごろう)じろ。
スパッと斬(や)られてしまったんです・・・・・あの担いだ刀が大きなツバでしたが、泥溝(どぶ)へ置いて来ました。
刀(あれ)がさ、どうなりましたろうて・・・・
2019年2月1日に 「辻斬りをする水戸黄門」 と題して井沢元彦の文章を紹介しました。コチラです。 ↓
https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12436052925.html?frm=theme
9月21日の東大寺大仏殿