「 徳川さん宅(ち)の常識 」
徳川義宣 (とくがは よしのぶ 昭和8年~平成17年)
株式会社 淡交社 平成18年3月発行・より
もう二十年ほど前のことになるが、あるとき徳川林政史研究所の
所三男所長が私に電話を廻して来た。
私の部屋は二階、所長室は三階である。
「ああ、□□から私のところへ電話で、貴方のことを伺(うかが)ひたいと云って来たのですが、それなら御本人に直接伺へばいいだらうと云ったんですが、どうも失礼な奴なんですが・・・・ちょいと聞いてやって頂けると有り難いんですが・・・・」
所三男氏の”語り口調”は、接続助詞の 「が」 で、それも順接だか逆接だか区別もつかないままに無限大に続いて行くのが特徴だったから、息の切れめで 「はい、いいですよ」 と云って、すかさず電話機の廻線ボタンを外線に切り替へた。
「もしもし、お待たせしました。電話代わりました。私、徳川ですが」
「はあ?あのう、所先生に伺はうと思ったんですが・・・・」
「ええ、所長から私が伺ふ様にと云はれて代わったんですが、御用件は?」
「いえ、あのう、所先生に トクガワ ヨシノブ のことについてお尋ねしようと思ったんですが・・・・」
ひとの名前を、それも電話で取材しようと云ふ相手の名前、諱(いみな)をいきなり呼び捨てにするとは・・・・・私は少しむっとした。
「ええ、ですから代わったんです。私の何についてお尋ねになりたいんですか」
「いえ、あのう・・・・そのう・・・・ですから ヨシノブの・・・・」
「はい、私が徳川義宣です、お答へできることならお答へしますが」
「え? トクガワ ヨシノブ・・・・さん・・・・」
相手は絶句してしまった。
「もしもし・・・・」
「もしもし・・・・あのう・・・・十五代将軍の・・・・」
頭の中がシュパン!とした。
相手が云ってゐるのは ”徳川慶喜” のことだった。
私は耐(こら)へても堪(こら)へても湧き上がってくるをかしさに、涙声の様になりながら答へた。
「わかりました、トクガハ ヨシノブ、十五代将軍ヨシノブのことについてのお尋ねなんですね。済(す)みませんでした。字は違ひますが私も ヨシノブが名前ですので・・・・でも、私たち徳川の家の者は十五代将軍のことはみんな 慶喜(けいき)公とか 慶喜(けいき)様とか云ってゐて、ヨシノブ公とか
ヨシノブ様とは決して呼びませんし、歴史学者も先づみんな慶喜(けいき)と呼んでゐて慶喜(よしのぶ)とは普通呼びませんので・・・いえ、もちろん本来は 慶喜(よしのぶ)が正しいんですが、慣習と云ふか恒例として慶喜(けいき)と呼び慣らはしてゐますもので・・・・」
「はあ、あのう、でも、まさか御本人が電話に出られるわけはないと・・・・こちらもうっかり・・・・いえ、これはどうも、いや、失礼しました」
電話の向ふの相手も、さぞかしビックリしたに違ひない。
しどろもどろの極みで、その有様が見える様だった。
徳川慶喜家は神道なので墓に線香はあげないそうです。2017年9月28日に 「徳川慶喜の墓に線香は駄目」 と題して子孫の文章を紹介しました。コチラです。 ↓
https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12314389500.html
朝霞(埼玉)の花火大会 8月4日 中央公園にて撮影