「戦うリーダーのための 決断学」」
小和田哲男(おわだ てつお 1944~)
PHP研究所 2003年9月発行・より
家康は、武田遺臣と敵対するのではなく、遺臣をとりこむ方針で臨み、その年の内におよそ九百人の元武田家臣を採用している。
遺臣のとりこみが一段落し、おそらく、勝頼最期の場面の話を誰かから聞いたのであろう。
武田家臣が一人消え、二人消えしていった中で、最後まで勝頼のもとを離れなかった土屋惣蔵昌恒に関心をもった。
「それは忠臣である」 というわけだ。家康は、「忠臣の子は忠臣になる」との信念をもっていたらしく、「土屋昌恒には子どもがいたかもしれない。捜し出せ」 と命じている。
しかし、遺児はなかなかみつからなかった。
最後まで信長・家康に抵抗したわけで、みつかれば殺されるかもしれないと、隠れていたからである。
ところが、だいぶたって、全くの偶然から、昌恒の遺児がみつかった。
残念ながら、それがいつのことなのかは不明であるが、
家康が駿府から江戸に向かう途中のことといわれているので、少なくとも天正十八年(1590)以後のことである。
あるとき、家康が駿府をたって江戸に向かったが、途中で書状を出す必要があるのを思い出し、街道沿いの寺に立ち寄った。
それが興津の清見寺(静岡市清水興津清見寺町)という臨済宗の古刹であった。
住職に 「紙と硯をお貸し願いたい」 というと、小坊主がそれを持ってきた。
家康は、その小坊主の立ち居振るまいがしっかりしているのに気がつき、住職に、「あの小坊主は、どなたか名のある者の子か」 と聞いている。
実は、この小坊主が土屋昌恒の遺児だったのである。
はじめの内、住職は何とかごまかしていたが、ついに観念し、「土屋昌恒
の忘れ形見でございます」 と白状してしまった。
すると、家康は、「それは忠臣の種だ、わしにくれ」 と叫んだという。
「忠臣の子は忠臣になる」 との信念から出た言葉である。
このとき家康は自から駕籠に乗り、もう一つの駕籠に着がえを詰めていたが、それを出させ、何と清見寺の小坊主をそのまま駕籠に乗せ、江戸に連れていっている。
それだけではない。
江戸城に着くや否や、出迎えに出た秀忠に、「道中で忠臣の種を拾った。大事に育てるように」 と引き渡しているのである。
この昌恒の遺児は、こうして秀忠の小姓となり、秀忠から 「忠」 の一字を与えられ土屋忠直と名乗り、上総の久留里で二万石の大名となっている。
忠直自身は老中にはなっていないが、子孫からは何人も老中を出す、幕閣中枢の家となっているのである。
へたに撤退しなかったことで、土屋家は家を残したことがわかる。
武田の遺臣を取り立てた事などについては1月7日に徳川宗英の文章を「官軍の侠客たちと新門辰五郎」と題して紹介しましたコチラです↓
https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12332610417.html
2017年11月27日に 「毛利元就の影武者の子孫」 と題して小和田哲男の文章を紹介しましたコチラです↓
https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12330447467.html
2017年8月19日に~「武名を上げる」と「家名の存続」と題して小和田哲男の文章を紹介しましたコチラです↓
https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12298610565.html
昨年11月27日 平林寺(埼玉・新座)にて撮影