「徳川家が見た幕末の怪」
徳川宗英 (とくがわ むねふさ 1929~)
株式会社KADOKAWA2014年6月発行・より
明治八年(1875) 辰五郎は七十五年の生涯を終えた。
慶喜や勝海舟から信頼されて御用に励み、ずっと感謝されていたのだから、幸せな気持ちであの世に旅立ったと思う。
慶喜や勝は、「辰五郎は秘密をたくさん知っているから殺してしまおう」 とは微塵(みじん)も考えなかった。
その証拠に、勝は辰五郎の死後も名前を出して褒めている。
その意味で、徳川は侠客の辰五郎を 「最後までスマートに活用しきった」 といえる。
じつは、官軍に加わった草莽の中にも侠客がかなりいた。
なんと、赤報隊には博徒の大親分が二人加わっていたのだ。
清水次郎長との抗争で有名な甲州博徒の黒駒勝蔵と、「美濃の三人衆」 の一人として大垣に勢力を張った水野弥三郎(弥太郎とも)だ。
ともに大勢の子分を従えて、年貢半減令の宣伝や諜報活動をしていた。
侠客というのは強力な戦闘力と情報網を持っているから、その点で官軍に必要とされていたのかもしれない。
しかし、同じ侠客でも、黒駒勝三や水野弥三郎の最期は悲惨だった。
新政府に騙し討ちのようにされて命を落とし、何の評価もされなかったのである。
結果として、「ヤクザ者だから使い捨てにしてかまわない」 と新政府が考えていた印象は否めない。
両者の違いは、どこからくるのだろう?
わたしは、德川方と新政府で 「平和」 に関する認識の違いが
かなりあり、それが侠客への処遇にも表れていりような気がする。
大坂夏の陣のあと、家康は朝廷にお願いして元号を 「元和(げんな)」 と
改めた。「平和の始まり」 という意味だ。
家康は、過去にも対立した諸家の存続に心を砕いた。
たとえば、西三河に勢力を張っていた東条吉良氏は、青年時代の家康に攻められて、一時は没落したが、幕府樹立後は高家に取り立てられた。
のちに東条吉良氏からは、「忠臣蔵」 で有名な吉良上野介義央(よしなか)が出ている。
家康は、信長と同盟を結んでいた頃に敵対した今川氏にも寛容に接し、
品川に屋敷と捨て扶持(ぶち)を与えた。
武田の遺臣もたくさん再雇用した。
豊臣ゆかりの木下家には、関ヶ原の戦いのあと、備中足守に二万五千石の所領を与えた。
秀頼の遺児・奈阿姫(なあひめ)の命を救い、格式の高い鎌倉の東慶寺に入れた。のちに奈阿姫は東慶寺の住職になっている。
徳川幕府は誕生したときから 「平和」 を掲げ、二百数十年間、
「やたらと人を殺さず、穏やかにやっていこう」
という基本方針を貫いてきたのだった。
新政府はそうした歴史を背負っていなかったため徳川方であれ
官軍の一員であれ、邪魔な者はどんどん殺してしまった。
「因果応報」 といったら大袈裟だが、その結果、あとになって自分たちが殺した人に官位を追贈したり、恨みを買った政府要人が暗殺されたりするということがしばしばあった。
慶喜や勝海舟は、家康以来の平和主義で新門辰五郎を遇し、
江戸っ子の辰五郎は 「佐幕の心意気」 で二人に応(こた)えた。
とても良い関係だったと思う。
大正二年(1913)年、慶喜は七十七歳で死去した。
葬送のとき、辰五郎の末裔である火消衆が揃いの半纏(はんてん)と股引(ももひき)姿で集まり、小日向(こひなた)の第六天町(現文京区)の屋敷から谷中の墓地まで、組ごとに纏を掲げてお供をしてくれた。
維新から半世紀、辰五郎の 「佐幕の心意気」 は、脈々と受け継がれていたのだった。
昔の侠客が今のヤクザになって、こんなことをしているのでしょうか?
よく分かりませんが、このような本があったので、
2015年12月7日に紹介しました~「骨董市と暴力団とお寺」~↓
https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12103033558.html
国立博物館の庭園(東京・台東区)にて 昨年11月21日撮影
庭園散策MAPの説明文より~高さ5.7Mの銅製の塔。最上部の相輪には龍が絡み付き、垂木、斗拱(ときょう)の組み物の細部まで入念に作られています。基壇に第五代将軍徳川綱吉(1646~1709)が法隆寺に奉納した旨の銘文「大和国法隆寺元禄元年十二月日常憲院徳川綱吉」が線刻されています。綱吉の存命中に、院号と俗名を併記することは一般的に
ないため、没後奉納時の年号と施主の銘文が書き加えられたのでしょう。