「家康の仕事術 徳川家に伝わる徳川四百年の内緒話」
徳川宗英 (とくがわ むねふさ 1929~)
株式会社文藝春秋 2011年12月発行・より
家康の望みは、尊敬する源頼朝のように、征夷代将軍になって幕府を開くことだった。
『吾妻鏡』 を愛読していた家康は、頼朝がはじめて、「幕府=政府」
と位置付けて政治をおこなったことを知っており、その着想が気に入っていたようだ。
そこで、徳川が清和(せいわ)源氏の流れをくむ新田氏の一族だと称する系図を新たに作って朝廷に提出した。
征夷大将軍は源氏以外の者でもなれるのだが、鎌倉幕府を開いた頼朝も室町幕府を開いた足利尊氏も源氏だったため、当時の武家のあいだでは、源氏でなければ将軍になれないと思われていた。
源氏では新田氏より足利氏のほうが格上だが、足利尊氏は朝敵とみなされ、新田義貞は後醍醐天皇に尽くしたことで知られている。
そこで家康は新田氏の嫡流と称して、「自分は天下をとったとはいえ、天皇の権威は絶対的です」 という気持ちを朝廷にアピールした。
信長・秀吉・家康の三人のなかで、武家政治の伝統や朝廷の権威に対する認識が最も深かったのは家康であり、他の二人よりもずっと知識が豊富だった。
清和源氏の一族である新田義重(にったよししげ)の四男・義季(よしすえ)は、上野国新田郡世良田郷徳川という地に住んだため、義季の子孫は世良田徳川と称するようになった。
その末裔の親氏(ちかうじ)は、時宗(じしゅう)の僧となって諸国を遊行するうち、三河国加茂郡松平郷にやってきた。
ある日、松平郷の土豪・松平太郎左衛門尉信重の屋敷で連歌の会が開かれたが、執筆(しゅひつ)(連歌の句を懐紙に記す役)のできる者がなく困っているところに、親氏がふらりとあらわれ、その役を引き受けて数々の句を残らず書きとめた。
これで親氏は信重にすっかり気に入られてしまい、そのまま屋敷に長逗留。やがて信重のたっての願いで還俗(げんぞく)して娘婿に入り二男一女をもうけた。
三河の松平はその子孫であり、家康は親氏からかぞえて九代目にあたる・・・・。
江戸時代には、このような 「清和源氏末裔説」 が定着していた。
わが家にも、漆塗りの箱におさめた徳川の系図が数種類あり、どれも清和天皇から始まっている。
だが、「清和源氏末裔説」 はまったくの創作だ。
たとえば、この話に出てくる 「徳川」 は、もとは 「得川」 だったのを、家康が 「徳川」 に変えたという。
たしかに、損得の 「得川」 より人徳の 「徳川」 のほうがずっといい。
親氏が連歌の会で執筆をつとめたことになっているのも、当時は字の書けるひとが少なかったから、「先祖は教養のあるひとだった」 ということにしたかったのだろう。
三河の松平の出自に関する正確な資料は、徳川宗家にも伝わっていない。
松平郷は他の町と何度も合併を繰り返し、いまは豊田市になっている。
わたしも何度か訪れたことがあるが、かなり山奥にある町で、「松平のルーツは山賊だった」 と言われても驚かない。
ひらたくいえば、家康が朝廷に提出したのはニセ系図だったわけだが、
これは非難されることではない。
当時つくられた系図の多くはニセモノで、信長も秀吉も系図を創作していた。
ルーツをたどっても結局はどこかでわからなくなってしまうので、「お話」
をつくるしかなかったのだ。
どうせ先祖の話をつくるなら、できるだけ立派なものにしたいと思うのが人情だろう。
エゴノキの花 5月18日 光が丘公園(東京・練馬)にて撮影