中世ヨーロッパは臭かった  | 人差し指のブログ

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中世ヨーロッパ ~ ウィキペディア

  • 5世紀〜10世紀のヨーロッパについては 「中世前期
  • 11世紀〜13世紀のヨーロッパについては 「中世盛期
  • 14・15世紀のヨーロッパについては 「中世後期

 

 

「 山本七平と日本人 」

会田雄次 (あいだ・ゆうじ 1916~1997)

佐伯彰一 (さえき・しょういち 1922~2016)

廣済堂出版平成5年10月発行・より

 

 

 

会田 あの頃のヨーロッパなんて、野蛮国もいいところだったんです。

    ヨーロッパの中世なんてひどいですね。

 

 

    土間一室にけだものたちと一緒に人が住んでいたんですから。

 

 

    中世の農家というのはすごいですね。

    広い三十畳くらいの土間部屋が一室。

    そこに牛と羊がいるんですよ。

 

 

    その大小便たれながしの土間に藁(わら)をしいてその上に住んで

    いる。

 

 

    台所などありません。三本脚の鉄の釜一つが貴重な財産、それで

    炊事も洗濯もいっしょにやる。

 

 

佐伯 数年前の夏、オーストリア・アルプスのアルプバッハという町で国際

    会議があって、これはもう見事なリゾート町ですが、たまたま古い

    農家が保存してあった。

 

 

    のぞいて見るとびっくりしました。

    まさしく家畜と同居の家づくりでしたね。

 

 

会田 ヨーロッパの生活は臭いんです。

 

    牛の小便のしぶきは、寝ているあいだに顔にかかるでしょうし、凄ま

    じい世界に住んでいる。

 

 

    街の豊かな商人の家だけはちょっと違うってことでしょうか。

 

 

    イタリア・ルネサンスのナイフとフォークをつかう大市民たちの生活

    なんて別世界の話だった。

 

 

ルネサンス  14世紀イタリアで始まり、やがて西欧各国に広まった(文化運動としてのルネサンス)。また、これらの時代(14世紀 - 16世紀)を指すこともある(時代区分としてのルネサンス) ~ ウィキペディア

 

    (略)

 

 

     道路でも、その頃は都市内部以外、ヨーロッパには道がありませ

    んからね。

 

 

    信長がつくった幹支線の道路網などヨーロッパでは三〇〇年近く

    あとでないと見ることができません。

 

 

    休閑している畑を突っ切っていくだけです。

    大勢が通るところが道です。

 

 

    ローマは道を作った、これは未曾有のことです。

    極端にいえばローマの作った道があっただけです。

 

    (略)

 

 

会田 その頃の商人というのは、隊を組んで陸路を行くときは、荷物を

    背負うか馬にいっぱい載せて、宿屋に泊まっていくのですが、そこで

    寝るときは素っ裸ですね。

 

 

    衣類も荷物も大きな風呂敷みたいなものに巻いて、人がごろごろと

    寝ているなかへ入っていくだけですね。

 

 

    宿屋にかぎらず人々は藁というか、干草というか、そのなかに入っ

    て寝ていた。

 

 

    馬に荷物を載せていった場合、馬が暴れたりして荷物を落とすと、

    着地権といって領主にみな取られてしまう。

 

 

    川にも陸にも領主たちの関税がやたらとあって、ずいぶん召し上げ

    られた。

 

 

    だから彼らの通る道は、しょっちゅう変ったんですね。

    そんな世界だった。

 

 

     だから中世までは、ポツンポツンと世界的に見たら小さな局地に

    文化の灯火が灯っていた。

 

 

    中世末になると、アラブ世界と中国世界というかなり大きな世界に、

    寺院とか王宮とか大商人の邸をとりまく町といった 「点」 ではなく、

    「面」 としての文化圏が散在するようになった。

 

 

    その周りをゴチャゴチャやっているなかでも、ヨーロッパはたいした

    ほうではないわけです。

 

 

     ドナルド・キーンさんも指摘しているように、ことに文化程度はもち

    ろん一般の生活水準でも、室町、戦国時代では日本のほうが相当

    上だったんではないだろうか。

 

 

    家屋は木造、板屋根で一見貧しいけれども、物や文化の内容、能、

    狂言から歌謡まで、日本のほうが上ではないかという気がします

    ね。

 

 

    もちろん向こうには紫式部のように、ああいうものを書ける女性は

    いませんね。

 

 

    十七世紀になったらナヴァルの女王など一人か二人出ますけれど

    もね。

 

 

佐伯 そうですね。女性の教養というのは、日本が不思議なくらい早く高か

    ったですね。

 

 

    かぎられたエリート女性にしても、十一世紀にもう世界文学的な

    傑作を書いているでしょう。

 

 

会田 戦国大名という成り上がりでも、大半は中国古典を読み、禅の修行

    などしていた。

    立派な字も書いていますもの。

 

 

    ヨーロッパ領主たちはその頃でさえ、やっと署名できたくらいの人が

    多く、ほとんど文字は読めなかった。

 

 

    王さまでもあんまり文人はいませんね。

    キリスト教の教理を論じられる王などいなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                              8月15日の興福寺