シナの不潔さに驚いた道元 | 人差し指のブログ

人差し指のブログ

パソコンが苦手な年金生活者です
本を読んで面白かったところを紹介します

 

 

~ルビ・振り仮名などいくつかは省略しました(人差し指)~

 
 
 
「老いを生き抜く   長い人生についての省察
森本哲郎(もりもと てつろう1925~2014)
NTT出版株式会社 2012年9月発行・より
 
 
 
 貞応2年(1223)3月末、24歳の道元禅師は、師事していた建仁寺の住持、明全(みょうぜん)(栄西禅師の法嗣)に随伴して博多の津から日宋貿易船に乗って中国に向かった。
 
 
東シナ海の波濤(はとう)を越え、まさに死を賭した求法(ぐほう)の旅である。
 
  一行は途中、暴風雨にあい、大いに苦しんだが、それでも事なきを得て4月初旬、明州(寧波)慶元府に着いた。
 
 中国では嘉定16年、南宋四代の皇帝寧宗の治世だった。
 
 明全は、ほどなく師、栄西ゆかりの天童山へ赴いているが、道元禅師はなお船中に宿泊し、時おり上陸しては明州の諸寺を巡って叢林(禅の修行道場)を訪ね、天童山に掛錫(行脚の途上で僧堂に身を寄せ修行すること)すべく、その許可を待っていたものと思われる。
 
 
 当時、日本人の描いていた中国像は、日本より遙かに進んだ文明を誇る憧れの国のそれだったにちがいない。
 
 
  しかし、いざ実見してみると、人びとの生活ぶりもさることながら、僧侶たちでさえ、口臭がひどく、道元禅師はその不潔ぶりにおどろき、失望し、かなりの違和感を覚えたようである。
 
 
  『正法眼蔵』 には、こう記されている。
 
しかあるに、大宋国いま楊枝(ようじ)たえてみず。嘉定十六年癸未四月のなかに、はじめて大宋に諸山諸寺をみるに、僧侶の楊枝をしれるなく、朝野に貴賤おなじくしらず、僧家すべてしらざるゆゑに、もし楊枝の法を聞著すれば失色して度を失す。
あはれむべし、白法の失墜せることを。(『正法眼蔵』 「洗面」水野弥穂子校注)
 
(略)
当時の日本では、みな楊枝を使っていたようだ。
 
といっても、その使い方は仏法の仕儀にかなってはいないが、楊枝を使うことにおいて、宋人より遙かに勝っている。
 
(略)
ところで、その楊枝であるが、今日、私たちが用いている歯ブラシとはちがう。
読んで字のごとく楊、カワヤナギの枝を折ったもので、その枝先を噛みくだき、それを咀嚼して歯をこすり、舌をそそいで(刮舌)、口臭を取り除くのである。
 
 
インドでは昔から毎朝それを行っていたようだが、中国人は歯をみがくことに無関心だったらしい。
 
 
「しかあれば、天下の出家在家、ともにその口気(こうき)はなはだくさし。
二三尺をへだててものいふとき、口臭きたる。かぐものたへがたし。有道(ゆうどう)の尊宿(そんしゃく)と称じ、人天(にんでん)の尊師と号するともがらも、漱口・刮舌・嚼楊枝の法、ありとだにもしらず。これをもて推するに、仏祖の大道いま陵夷(下り坂)をみるらんこと、いくそばくといふことしらず」 と道元は慨嘆している。
 
 
 
 
5月18日 光が丘公園(東京・練馬)にて撮影