丁稚(でっち)とは、商家に年季奉公する幼少の者を指す言葉。丁稚として働く (奉公する) ことを丁稚奉公といった。職人のもとでは徒弟、弟子、子弟とも呼ばれる。江戸時代に特に多かった。
明治時代以後はいわゆる近代的な商業使用人となっていく。
10歳前後で商店に丁稚として住み込んで使い走りや雑役をし、丁稚の中でも経験年数によって上下関係がある
丁稚奉公の者は、店が当日の営業を終えたからといって終わりではなく、夕刻閉店した後には番頭や手代らから商人として必須条件である読み書きやそろばんを教わった。
その後、主人の裁量で手代となる。小僧から手代までおおむね10年である。手代はその字の通り、主人や番頭の手足となって働く。
そして、番頭を任され(大商店では“小番頭” “中番頭” “大番頭”と更にランク分けされる店もあり、主人の代理として店向き差配や仕入方、出納や帳簿の整理、同業者の寄合への出席など支配人としての重要な業務を任されるようになる。
番頭となるのはおおむね30歳前後であり、支店をまかされたり暖簾分けされ自分の商店を持つことが許される。ただしそこに到達するまでは厳しい競争に勝ち抜く必要があった。例えば、江戸期の三井家の丁稚の場合、暖簾分けまで到達できるのは300人に1人であった。
そのため丁稚になった者の生涯未婚率が高く、江戸後半に人口頭打ちとなった要因と言われている。 ~wikipedia
「 東京美術骨董繁盛記 」
奥本大三郎 ( おくもと・だいざぶろう 1944~)
中央公論新社 2005年4月発行・より
(古美術商の)「壺中居」 の創業者は広田松繁(ひろたまつしげ)といって、
明治30年生まれ、越中富山の八尾(やつお)の出身である。
不狐齋と号した。
宮島氏が 「私も八尾の出身なんですが、入店した時、同郷の先輩が
六,七人いました・・・・」 と言いながら、不狐齋著 『歩いた道』 という本を見せてくれる。
(略)
表題を見ただけでおおよそ、内容の見当のつくこと ばかりである。
借りて帰って読み始めたら面白くて止められない。
(略)
九歳の時に父と死別し、十二歳の時に親戚の老人の世話で、日本橋榑正(くれまさ)町(現・仲通り)の薫隆堂(くんりゅうどう)に奉公することになりました
・・・・と始まる一代記のところどころに何とも言えぬ味がある。
主人が北陸方面に仕入れに行って帰って来る。
夜行列車が到着するのが朝の七時とすると、五時には起きて冷飯に漬物で朝食を済ませて、暗い中、車を曳いて上野駅に迎えに行く。
車は大八車である。(大八車=江戸時代から昭和時代初期にかけての日本で荷物の輸送に使われていた総木製の人力荷車である。)
冬には列車が雪のために延着する。
それが時によると五時間、十時間も遅れて、夜になってやっと着いたこともある。
当時は延着する時間を知らせてくれないから、車を盗まれては大変と、
その上に腰かけて、チラチラと小雪の降る中、震えながら待っている。
北国から着く列車の屋根に雪が積もっているのを見ると、ああ故郷に帰りたいなあ、と思うけれど、母は埼玉の製糸工場に働きに行って、ふるさとに家はもうない。
夜遅く車を曳いて全身冷え込んで帰った時、奥さんが、「御苦労だつたね、疲れたらう、さあ、早くあつたまつておやすみ」と、ねぎらつて呉(く)れる言葉より、主人が 「ウドンでも取つてやれ」 と言つてくれて、熱い一ぱいのウドンを吹きながら食べるのが、小僧にとつては どれほど有難いか知れませんでした。
奥さんは優しそうでも言葉だけ。
「早くおやすみ」 とは ウドン 一ぱいの金が惜しいのであろう。
昔の人だから、あからさまなことは言わないけれど、子供心に、”あたたかさを装った言葉の何という冷たさ・・・・” と思ったに違いない。
それに反して 「ウドンでも取つてやれ」 と言ってくれる主人は、自分自身も人に使われたような経験があったのであろう。
この当時の丁稚(でっち)、小僧の多くは栄養不足と過労のために結核に罹(かか)り、故郷に帰って寂しく死んでいる。
生まれつき丈夫な人たちだけが、無事に務めあげることが出来たのである。
5月22日の猿沢池