司馬遼太郎の父と祖父  | 人差し指のブログ

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「 日本文明のかたち  司馬遼太郎対話選集 5 」

司馬遼太郎 (しば・りょうたろう 1923~1996)

株式会社 文藝春秋 2006年7月発行・より

 

 

~ 世界のなかの日本  十六世紀まで遡って見る ~

                       ドナルド・キーン (1922~2019 )

 

 

 

[ 司馬遼太郎 ]   私の祖父は農民ですけれども、播州姫路の郊外の

              広(ひろ)(広畑)というところから大阪に出てきたのが

              明治初年でした。

 

 

ほんの少年だったらしいんですが、日露戦争が終わる1905年までちょんまげを結っていたそうです。

 

それは、日本でただ一人のちょんまげの人だったそうです(笑)。

 

 

 彼はほんとうの攘夷(じょうい)論者でした。お金にはわりあい不自由しない人でしたが、小学校は西洋のものだと思ってました。

 

 

だから、女の子供が二人できると、それは女の子だから西洋の小学校へ入れました。

 

 

五十歳のときに男の子ができます。

私の父親ですが、これは大事な子供だから、小学校には行かせない。

だから、私の父親は苦労しました。

 

 

二十歳のときに徴兵検査という関門がありますが、そのときに小学校の卒業免状を出さなければいけない。

 

 

ところが、小学校を出ていないために、どこか大阪の小学校の校長先生にわいろを持っていって、卒業免状をつくってもらったそうです。

 

(略)

 

 この明治三十七,八年ごろまでちょんまげを結ってた人は、五十歳のときにできた自分の息子を、小学校にやる代わりに漢文の塾に通わせました。

 

 

当時、やはり漢文の先生というのは、いたようですね。

表札に 「士族松平某」 と書いてあるところに通ったそうです。

 

 

ただ、ちょっと面白いのは、英語の塾にも通わせてました。

 

 

それから代数を教えているところがあったというのは不思議なようですが、代数の塾にも通わせました。

 

 

代数の初歩ぐらいまでは、そろばんでできるそうですね。

 

 

その祖父、福田惣八(そうはち)といいますが、姫路の郊外の人ですから、

関考和(1640ごろ~1708)以来の和算を身につけていました。

 

 

関 孝和(せき たかかず/こうわ、? - 宝永5年1708年)は、日本江戸時代和算家(数学者)である。

関孝和は関流の始祖として、算聖とあがめられた。明治以後、和算が西洋数学にとって代わられた後も、日本数学史上最高の英雄的人物とされた。

 

ともかくもこの祖父という人は、ちょっと考えられない時代錯誤の人でした。

 

 

 いまとはずいぶんかたちの違う時代だということの例として話をしているんですが、父が塾から帰ってくると、祖父は自分の息子が習ってきた代数の答えが合っているかどうかを和算で検証したというんです。

 

 

代数だと とか  とかが入っているから、ちょっとわかりにくい話なんですが、私はそう聞いているだけです。

 

 

 いずれにしても、江戸時代を引きずっている人が庶民のうちにもいて、日露戦争に勝ちますと、ちょんまげをざんぎり頭にする。

 

 

そのときに、時計とこうもり傘を買いました。

 

 

日露戦争に勝ったから、これらは西洋のものだけれども、もう使ってもよろしいというわけです。

 

 

以上はインテリの世界の話ではなくて、庶民の世界の話ですが・・・・。

 

 

                                      

 

 

「 アジアの中の日本 司馬遼太郎対話選集 9 」

司馬遼太郎 ( しば・りょうたろう 1925~1996 )

株式会社 文藝春秋 2006年11月発行・より

 

~ 歴史の交差路にて  日本・中国・朝鮮 ~

                陳舜臣 (ちん・しゅんしん 1924~2015 )

                金達寿 ( きむ・だるす 1919~1997 )

 

 

 

 

[ 司馬遼太郎 ]   ただ、自分の身内の例をもちだして何やけど、ぼくの

              祖父は、日露戦争が終わる頃までちょんまげをして

              たんです。

 

 

これ、断髪令違反ですよ。

そんな奇人というのは、世間にはそう おらんかった。

 

 

子供の教育にしても、小学校は、あれは洋(西洋)のもんや、といって、娘たちは全部、古いころの女学校を出した。

 

 

そして、息子は      これは、ぼくの父親ですよ      五十歳のときの子ですから大事にして、これも西洋とこには入れん といって、小学校へ入れへん わけや。

 

 

 ぼくの父親だから、明治30年ごろの生まれで、ついこの間まで生きてた人ですよ。

 

 

その彼が、小学校期間は全部、塾に通わされた。

 

 

そのおじいさんというのは、関考和の流儀を継いでると称してる人だから、そろばんは家で教えるわけ。

 

 

開平開立まで教える。

それで、鉛筆で書く代数は塾へ通わした。

 

 

それからまた、漢文はどこそこの塾へ行ってという具合で、どういうわけだか英語は習わせなかったけど、ドイツ語を習わせに塾に行かせたりした。

 

 

ぼくの父親は、最後まで D を ディ とよういわんとデーといって、C は チェーといってましたよ。

 

 だから、小学校卒の免状なしです。

 

 

ところが、小学校卒の免状がなかったから、兵隊検査のときに具合が悪いわけや、そのために、兵隊検査前に、まだ医師・薬剤師が学校を経ずして国家試験のの検定試験がある時代だったから、薬剤師になった。

 

 

それは、小学校の免状関係ないから、十八か十九で薬剤師の資格をもらったんです。

 

 

 

 

 

                          5月22日の猿沢池付近