「 学校では教えてくれない戦国史の授業 秀吉・家康 天下統一の謎 」
井沢元彦 (いざわ もとひこ 1954~)
株式会社PHPエディターズ・グループ 2017年11月発行・より
秀吉の唐入り(朝鮮出兵)の目的は、よく言われているように 「明に代わって東アジアに新しい国際秩序をつくる」 「大貿易圏を築く」 といったこともありますが、私は 「失業の危機に瀕していた専業兵士たちを救うための雇用対策」 ということも目的だったと確信しています。
ですが、それらのことだけが目的だったわけではないことも事実です。
というのは、秀吉はこの 「唐入り」 で、豊臣政権の最大の弱点である 「徳川家康」 の存在感を小さなものにしようとしていたと考えられるからです。
これは、結果的に唐入りが失敗に終わったので見えにくくなっていることですが、もし唐入りが成功していたら、日本はどうなっていただろう、と考えれば見えてきます。
現在、唐入りは 「愚行」 「暴挙」 「無謀」 と断じられてしまっていますが、秀吉は 「勝算あり」 と見たからこそ唐入りを実行したのです。
これはちょっと考えればわかることです。
初めから負けるとわかっている戦争を仕掛けるバカはいません。
ところが、秀吉は最も勝算のたかい 「ベストの人選」 をしていないのです。
この時点で、最も野戦に強い指揮官は、誰がどう考えても徳川家康です。
そして、最も優れた軍師は、やはり黒田官兵衛だと思います。
であるならば、秀吉にとって唐入りで勝利を収める最善の人選は、総大将・徳川家康、軍師・黒田官兵衛だったはずなのに、彼はそれを選んでいないのです。
では、なぜ秀吉は彼らを選ばなかったのでしょう。
当時は秀吉に逆らう人はいなかったのですから、万が一、家康が行きたくなかったとしても、秀吉に命じられれば行っていたはずです。
答えは、彼らを派遣して 「勝たれたら困る」 からなのです。
なぜ困るのかというと、今でさえ家康は二百五十万石の大大名なのに、ここで勝たれたらさらに最低でも二百万石は加増しなければならなくなるからです。
当時の秀吉の領地が金山銀山、それに貿易の収入を含めて約五百万石規模ですから、家康を総大将に任命して勝たれてしまったら、秀吉とほぼ同じ力を持つことになってしまうのです。
それだけは絶対に避けなければなりません。
黒田官兵衛は、秀吉の軍師なので別に力を付けても間違いないのではないか、と思うかも知れませんが、実は秀吉は、官兵衛の存在を家康と同じくらい恐れていたようなのです。
(略)
つまり、秀吉は唐入りが成功すると思っていたからこそ、勝った後のことを考えて、まだ領地のそれほど多くない加藤清正や小西行長など、自分の信頼する子飼いの部将たちを中心に遠征軍を組織したのです。
(略)
ちなみに、黒田官兵衛は現地に派遣されているのですが、指揮権を持たない顧問という立場に止(とど)まっています。
(略)
唐入りのところでも述べましたが、秀吉は加藤清正や小西行長といった子飼いの信用できる部将を唐入りで勝たせ、家康に対抗できる大大名に育てようと考えていました。
しかし、その大プロジェクトが失敗したことで、豊臣家を守る大大名となるはずだった加藤清正や小西行長は、却(かえ)って勢力を弱める結果になってしまったのです。
2017年6月24日に 「猫も一緒に朝鮮出兵」 と題して加瀬英明の発言を紹介しました。コチラです ↓
https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12285961325.html
2019年5月6日に 「朝鮮出兵はキリシタン撲滅のため?」 と題して遠藤周作の発言を紹介しました。コチラです。 ↓
https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12458241567.html
2019年6月12日に 「秀吉の朝鮮出兵の目的」 と題して池宮彰一郞と山内昌之の対談を紹介しました。コチラです ↓
https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12473332402.html?frm=theme
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