大名になる気だった新撰組  | 人差し指のブログ

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「 歴史小説の読み方       吉川英治から司馬遼太郎まで 」

会田雄次 (あいだ ゆうじ 京大名誉教授 歴史学者 1916~1997)

PHP研究所 1986年1月発行・より

 

 

 

 

 私事で恐縮だが、ここで少し 私の明治維新に関する思い出を語って

みよう。

 

(略)

 

 それによると、祖父は白河の出身で、会津藩士、といっても名字帯刀を許されただけの地侍だったらしいが、水戸藩士だった従兄の影響を受け脱藩して上京してきた。

 

(略)

 

 祖父は祖母を京都へ来てから もらっている。

 

 

この祖母は古い京都の人ではないけれども、壬生の近くに開業していた磯貝某という医者の娘で、私が小学校四年まで生きていた。

 

 

新撰組の連中が怪我したり病人になったりすると、その医者のところに担ぎ込まれてくる。

 

 

祖母は美人だったので隊士たち みんなから可愛がられて、祖母から聞いたところでは 「俺が大名になったら おまえを嫁に迎えに来る」 とよく

いわれたそうだ。

 

 

「みんな、本気で御大名になる気だったのねえ」

とは祖母の述懐である。

 

 

その夢が多少なりとも実現したのは、何と慶応四年三月一日、鳥羽伏見の戦いで敗れ、王政復古、慶喜が江戸へ逃げ帰ってからである。

 

 

新撰組改めて甲陽鎮撫隊となり甲州城乗っ取りのため江戸を発したが、そのとき近藤は若年寄格、土方は寄合席格、近藤は長棒(ながぼう)引戸の大名用の駕籠に乗り、土方は悠々と馬上した。

 

 

隊士は天下の直参として青だたき裏金抜けの陣笠を冠した隊長格であった。

 

 

近藤も土方も元は武州多摩郡の百姓の倅、それも鄕士でもなければ帯刀御免の家でもない。

 

 

他の隊士たちも同じ。  それが命をすてて働いた結果の栄誉だ。

 

 

 かつて売薬の行商などしていたとき、こんな陣笠の御歴々に対面する

場合など、路上に土下座、顔をあげることはもちろん、直答することさえも許されなかったはずである。

 

 

けれど実現したこの栄誉の何とむなしいことか。

現実に幕府はもう存在していないのだ。

 

 

それはいわば死装束、幻の衣装でしかなかったのである。

 

 

 

 この祖母は、今どこにしまったか 見つからないのだが 「至誠 勇」 と近藤勇に書いてもらった扇子をもっていた。

 

 

私が子供の頃は日本神国の時代で 「佐幕」派は肩身がせまかったものだが、新撰組だけはチャンバラ映画のおかげもあって、わりあい人気があった。

 

 

「寄らば斬るぞ。今宵の虎徹は血に飢えている」 などと よく遊んだものだ。

 

 

私も得意で その扇子を振り回して遊んだことを覚えている。

 

 

                                        

 

 

2018年4月21日に 「近藤勇の愛刀・虎徹はニセ物」 と題して海音寺潮五郎の文章を紹介しました。コチラです。 

https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12367565351.html?frm=theme

 

 

 

 

 

                        9月30日 奈良市内にて撮影