近藤勇の愛刀・虎徹はニセ物 | 人差し指のブログ

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「日本の名匠」

海音寺潮五郎(かいおんじ ちょうごろう 1901~1977)

中央公論新社 2005年7月発行・より

 

 

 

 文久二年(1863)の正月、出羽庄内の清河八郎は旗本の山岡鉄舟らと相談して、幕府のためにつくすという名目で幕府から金を出させ、浪人を募集して、新徴組をつくった。

 

 

あたかも、将軍家茂は京都朝廷からのきびしい要請で上京することになったが、当時の京都には反幕勢力が充満している。

 

 

長州藩が中心となり、京に集まっている全国の浪人志士らを組織して、

反幕熱をあおっているのだ。

 

 

幕府としては対抗策を講ずる必要があった。

新徴組は将軍の護衛という名目で、京に上がった。

 

 

もっとも、将軍は東海道をとり、新徴組は中山道をとった。

 

 

この新徴組の中に、近藤勇がいた。      彼は数日前、刀屋に行って、

「飛び切り切れ味のよい刀をほしい。代はずいぶんはずむ」

と頼んだ。

 

 

刀屋はさがしてみましょう、両三日待っていただきますと答えて近藤をかえしたが、 思うところがあった。

 

 

その少し前、山浦清麿という鍛冶がいた。

四谷に住んでいたところから四谷正宗といわれているくらいよい刀を作った。

 

 

この清麿の刀に贋銘切りの名人である細田平次郎直光   通称鍛冶平というのに清麿の銘をすりつぶして虎徹の銘を切らせ、適当に古びをつけて、つかませようというはら。

 

 

 刀そのものは四谷正宗、銘は名人といわれたほどの細工だ。

 

 

近藤はまんまと引っかかり、「さすがは虎徹だ。胸がすくような」

 というようなことを言って、五十両という大金をはらって、引取った。

 

 

 

 

 さて、新徴組は京についたが、その翌日、

清河八郎は朝廷の学習院   当時の学習院は公家の子弟の学問所というより、民間から朝廷への意見申立て所になっていたが、ここにむかって、

 

 

「われわれは尊王攘夷の赤誠をいただいている者であります。われわれに働く場をおあたえいただきたい」     と陳情した。

 

 

一体、清河は将軍護衛なぞする気はない。

 

浪人を集めて一勢力をつくり、国家のために働くために、幕府の力を利用したにすぎない。

こうするのは、最初からの目的だったのだ。

 

 

 朝廷ではこれを嘉納し、攘夷を実行せよとの勅諚まで下賜された。

 

 

 幕府側では仰天して、理由をもうけて新徴組を関東にかえしたが、

一部帰らないで居残った者がいた。

 

これが新撰組になったのだ。

 

 

新撰組は会津藩の雇い武者の形となって京都に滞在をつづけたが、

彼らがその威力を最初に発揮したのは、この翌年の三条小橋の

池田屋事変の時だ。

 

 

自らの存在価値を旦那に知ってもらえる最初の機会だったので、

彼らは精一ぱい、根かぎりの働きをした。

 

 

新撰組が   中にも近藤が、鬼神の強さをもっていると恐れられるようになるのは、この時からである。

 

 

彼はこの時のことを、養父の周斎に手紙で知らせている。

 

「同志の者の刀は皆刃こぼれしたり、折れたり、曲がったりしましたが、

拙者の刀は虎徹であるためか、無事でありました」

 

 というのだ。彼はついに贋物であったことに気づかなかったのである。

 

 

 

 

 

 

英国大使館前の公園(東京・千代田区)にて3月26日撮影。左の方にほうの木々が皇居です。