「 歴史が遺してくれた日本人の誇り 」
谷沢永一 (たにざわ えいいち 関西大名誉教授 書誌学 評論家
1929~2011)
株式会社青春出版社 2002年6月発行・より
足利幕府の末期には戦国大名が現れ、その戦国大名を統一するのが豊臣秀吉である。
その秀吉は、賄賂を必要としなかった。
そこには秀吉の運のよさがある。
なにしろ秀吉が天下をとった途端に、日本全国から黄金が大量に掘り出され始めたのだ。
それは金銀の採掘技術が発達したせいでもあるが、秀吉の大阪城には金が山ほどにあった。
だから、秀吉は大名から賄賂なんか 「いらない」 となる。
秀吉はお金に関しては無邪気であり、そのために ときとして悪趣味に走ることもあった。
大阪城の金の茶室がその典型だが、秀吉は基本的にお金が好きで、商売が好きだった。
そのため堺の町を全部大坂へと引っ越させたのだ。
(略)
ともかく秀吉は大商業都市をこしらえた。
それが、近代日本を造る根本となっている。
この商売を潰したかったのは、豊臣政権につづく徳川家康である。
家康は米だけで成り立つ経済をつくりたかった。
そのためには、秀吉以来の大阪経済を潰したかったのだが、すでに大きく発展していたから潰せない。
泣く泣く大阪経済を許したのである。
家康以来、日本では徳川政権の時代となり、この時代に生まれるのが 「武士道」 である。
武士道というのは、明治になって新渡戸稲造(にとべいなぞう)がつくりだした言葉であるが、そのあり方は江戸時代に始まる。
逆に言えば、それまでの時代に武士道と言えるものはなかった。
戦国時代は、仕えている大名が気に入らなかったら、明日には新しい大名の元に移ったものである。
まして、大名のために身を挺してという気持ちは持ち合わせていなかった。
それはスカウトの時代でもあった。
だから石田三成は勇猛な侍である島左近をスカウトするため、大金を投じている。
それが一転、江戸時代に武士道が生まれ、武士が殿様に尽くすようになったのは、給料制になったからである。
武士たちは日本の何十余州という国を取り仕切り、庶民を生かしていく義務を初めて自覚した。
その義務の見返りに、禄という給料をもらうのである。
長い日本の歴史にあって、江戸時代の武士ほど給料を尊いものと思った人たちはいないだろう。
明治になると、月給取りが出てきたが、彼らは働いている。
その見返りにもらう給料は当たりまえであるから、尊いとは思わなくなるのである。
これに比べて、江戸時代の武士は働かずに禄をもらっている。
それは武士として義務を果たすためと、関ヶ原以来の伝統を伝えるためだ。
これには、世襲制がからんでくる。
江戸時代の侍官僚の特徴は、世襲である。
お爺さんや ひいお爺さんが活躍した関ヶ原の戦いでの功によりもらった地位が世襲となる。
そして、先祖が関ヶ原で戦った精神を伝えつづけるのが、武士の仕事になる。
自分が先祖の精神に外れて おかしなことをすれば、いまの地位も収入も子孫に伝わらない。
そのために、悪いことができないようになっている。
この月給制と世襲制のおかげで、江戸時代の武士は、基本的に賄賂なしで生活できるようになっている。
命を懸けて家名を守るのが武士というわけである。
武士はそれをとことん守り、磨き上げていった。
武士道という一個の形而上学にさえなったのである。
2018年6月11日に 「江戸時代の武士の責任感」 と題して小林秀雄の講演を紹介しました。コチラです。 ↓
https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12365417905.html?frm=theme
2018年2月15日に 「武士の習い事の数々」 と題して小和田哲男の文章を紹介しました。コチラです。↓
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2018年6月13日に 「幕末の下級武士の絵日記」 と題して高島俊男の文章を紹介しました。コチラです。 ↓
https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12382427360.html?frm=theme
奈良公園にある 「奈良春日野国際フォーラム」 にて 9月22日撮影