江戸時代の作家の年収は ?  | 人差し指のブログ

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「 江戸時代と近代化 」

大石慎三郎 (おおいし しんざぶろう 学習院大名誉教授 歴史学者

         1923~2004)

株式会社講談社 1987年12月発行・より

 

 

~江戸文学における近代の芽ばえ 小西甚一/小山観翁/野口武彦

                       芳賀徹/中根千枝/郡司正勝 ~

 

 

 

 

小山 江戸文学の受け手というのは、どのような形で動いていったのです

    かね。

 

 

小西 売れ行きということだけで考えますと、ある種の作家は、なかなかの

    ものでした。

 

 

    馬琴などは、読本に限っていえば部数は少ないですね。

    多分一千部以内・・・・・。

 

 

    ただ、貸本屋があちこち背負って回りますので、回読率は高いので

    す。

 

 

    実際の読者数は随分多かったでしょう。

 

 

    貸本屋には、かついでまわるのと店を開くのとがありまして、開業先

    といたしましては、江戸のような市中は別といたしまして、湯治場な

    んかです。

 

 

    そんなところまで考えれば読者の数は多かったでしょうね。

 

 

    合巻という草双紙、これはすごい発行部数です。

 

 

    馬琴が 『江戸作者部類』 で自慢しているところによると、一万ぐら

    いは行っている・・・・。

 

 

    馬琴の日記によりますと、自分は思想性の高い読本こそ書きたいの

    だけれども、実入りがよくない。

 

 

    しかも、読本を書くためには、準備がたくさんいるし、参考書も買わ

    なくてはならない。

 

 

    元手ばかり要って、収入はあまりないので、やむを得ず草双紙を書

    いて収入の補いをつけている、というようなことを記しています。

 

 

    ベストセラーの草双紙の場合だと貸本屋の分も入れまして読者は

    十万以上になるでしょう。

 

 

    となると今の出版界でも大変なことですね。

 

 

小山 読本は現在の純文芸、草双紙は大衆文芸という感じですね。

 

 

小西 そうですね。いまの大衆文芸でも五十万部刷るということになると

    たいへんでしょうね。

 

 

    草双紙のベストセラーというと そんな感じですね。

 

 

    貸本でどんどん出て、それがすり切れてボロボロになって、読み破

    られてしまいますので、いま草双紙などで残っているのは少ないわ

    けです。

 

 

野口 馬琴の海賊版が出ていますね。 彼はそれを非常に怒っています。

 

 

    だからマーケット自体の要請はかなりあったと見ていいでしょう。

 

 

小山 滝沢馬琴が鈴木牧之の 『北越雪譜』 をあずかって、出版のあっ

    せんをするとき、たいへん長年月 貢物をを取りまして、結局誠意を

    示さなかったというような話があります。

 

 

    そういう自費出版のようなものはかなり盛行していたのでしょうか。

 

 

小西 自費出版は、かなり多いですね。

 

 

    とくに学術的なものの場合は、平賀源内にしても、『風流志道軒

    伝』 は、お金が入ることを期待したでしょうけれども、物産学に関す

    るものなどは儲けるつもりはなかったでしょう。

 

 

    それが出れば、物産会のPRには大変役立つわけですけれども、

    印税を稼ごうという代物ではなかったでしょう。

 

 

芳賀 しかし、収入の額はどんなものでしょう。

 

 

    文化、文政ころになればベストセラーで大もうけということすらあった

    ようですが。

 

 

中根 どのくらいになると生計が立ったのです。

 

 

小西 よく分かりませんけれど、大金持ちではないにせよ、息子に御家人

    の株を買って侍のはしくれにしてやれるくらいの収入にはなっている

    のですね。

 

 

中根 印税のようなものが入るのですか。

 

 

小西 印税というより、買取りの原稿料ですね。

 

 

郡司 馬琴の日記を見ますと、あそこの本屋が三両持って来た、四両持っ

    て来た、という程度のことは書いてありますね。

 

 

芳賀 馬琴は、ほかの作者に比べて非常に稿料が高いですね。

 

 

    年収で平均して どのくらいあったのでしょうか。

 

 

小西 庶民の中流の下といったところでしょうか、先ほど申しました大窪詩

    仏のようなことはできません。

    

 

    ですから薬屋を兼業したり化粧品などを売ったりもします。

    そして、自作の余白でPRしたりしています。

 

 

芳賀 あの頃杉田玄白は小浜藩の藩医であるかたわら町医者を開業して

    いました。

 

 

    毎年の日記の末に、今年の収入がいくらあったかというのを書いて

    いますが、千何百両という莫大な収入です。

 

 

    やはり医者はもうけていた・・・・・。(笑)

 

 

野口 大田南畝が吉原の遊女を見受けして妾にするのですが、あの金は

    どこから出たのでしょう。

 

 

    彼は勘定方まで出世していますが、そういう彼の給料だけではちょ

    っとむりという感じですね。

 

 

芳賀 狂歌の収入かな。

 

 

小西 狂詩の選者ということで付け届けはあったでしょう。

 

 

小山 お祭りののぼりとか揮毫料もあります。

    頼山陽などもそれで収入を得ていたということですね。

 

 

野口 蜀山人はやたら賛をしているのですね。

 

    

 

                                                                  

 

「 明治メディア考 」

加藤秀俊 (かとう ひでとし) / 前田愛 (まえだ あい)

中央公論社 昭和55年4月発行・より

 

 

 

加藤 たとえば江戸の町人からみて、大店の番頭とかお茶屋の経営者と

    か小間物屋とか、いろんな職業と比べて、戯作者というのは どの

    へんに位置づけられていたのでしょうか。

 

 

前田 かなり下のランクだろうと思います。

 

 

    収入にしても、馬琴の年収が五十両とか八十両、これはいまのお金

    にしてどのくらいでしょうか。

 

 

    どう大きく見積もっても千万以下でしょう。

 

 

    馬琴ほどの大流行作家でそのくらいですから、戯作者はだいたい

    副業をやりながら文筆業を営んでいるわけです。

 

 

    山東京伝の場合は小間物屋をやっているし、式亭三馬の場合は

    「江戸の水」 という化粧水を売り、為永春水の場合は歯磨粉を売っ

    ています。

 

 

    そういうふうに戯作者というのは、頼山陽などの文人にくらべたら

    はるかに地位が低い。

 

 

    文人の場合は生活の面でも、地方まわりがありますからずっといい

    ですね。

 

 

    地方の豪家に滞在してはそこに書画をのこしていくというスタイルが

    あるわけです。

 

 

    戯作者の場合はそれだけ尊敬されていませんから、地方まわりで

    生活が成り立つということはありません。

 

                                    

 

 

「 歴史を記録する 」

吉村昭 (よしむら あきら 1927~2006)

株式会社河出書房新社 2007年12月発行・より

 

~  杉田玄白 ・ 三國一郎  ~

 

 

 

 

吉村 ところが、片方の杉田玄白は 『解体新書』 の訳者だったということ

    で、弟子がワッとあつまるわけです。

 

 

    それと同時に江戸随一のオランダ医学の流行医になるんですね。

 

 

    その当時の収入を、杉田玄白は日記の中で大みそかのときに必ず

    書いてあるんですよ。

 

 

三國 なかなか克明に書く人なんですね。

 

 

吉村 書いてあるんです(笑)。  五百両、六百両と・・・・年収が。

 

 

三國 今年はこれだけだったという。

 

 

吉村 ええ。その当時、滝沢馬琴が一番の流行作家で、年収四十両ぐら

    いが最高。

 

 

    それからそのころ女の人が一年働くと、だいたい一両二分ぐらいで

    す。

 

 

    だから、かなりの年収といっていいんじゃないでしょうかね。

 

 

    だからいつも小説家はお医者さんにかなわない(笑)。

 

 

    改めてそう思いましたけど。

 

 

三國 両方やっている方もときどきある。

 

 

吉村 そうですね(笑)。

 

 

初出 三國一郎 「杉田玄白」 日本放送協会編 『NHK歴史と人間・4』

    日本放送出版協会、1978、9

 

 

 

 

この木の葉は鹿が食べないので切り株から芽が出るとこうなります。

                          奈良公園にて 9月22日撮影