江戸時代の飛脚の速さ   | 人差し指のブログ

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「 江戸時代と近代化 」

大石慎三郎 (おおいし しんざぶろう 1923~2004)

株式会社筑摩書房 1987年12月発行・より

 

 

 

 

 

 飛脚制度も重要な情報の収集・伝達手段でした。

 

 

幕府も諸藩もそれぞれの飛脚制度を持っています。

 

 

幕府の場合、継飛脚です。

これによって全国に情報を伝達したり、また収集したりするわけです。

 

 

有名なのは尾州藩と紀州藩が持っていた七里飛脚でしょう。

 

 

七里ごとに飛脚宿を置いたからそう呼んだ、とか いろいろ説があるのですが、その採用試験は大変面白いもので、笠を腹のところに置いたままで歩かせて、その笠を落とさずに規定の距離を歩いたら合格したのだそうです。

 

 

ともかく足の早いので、有名な飛脚でした。

 

 

日本で最初に全国に指名手配されました泥棒は日本左衛門ですが、この男は尾州藩の七里飛脚の息子であったと言われていますから、親父に似て足が早かったのでしょう。

 

 

今の岐阜辺りに住んでおり、昼間は俳句の先生で、点者などをして暮らし、日が暮れると、足に任せて、今の掛川辺りまで飛んで行って泥棒をしたのだという話になっていますが、これはどうも嘘のようでございます。

(笑)

 

 

親父が配置されていました継宿が掛川の近くの日坂の宿でしたから、多分あの辺りにいて、近在を荒らしたというのが本当でしょう。

 

 

ただ、ともかく非常に足が早くて行動範囲が並外れて広く、またどこへ入ればどうなるかという情報をよくつかんで、なかなかつかまらなかったと言われております。

 

 

脇にそれましたが、こういうような飛脚制度は、やはりコストがかかります。

 

 

独自に藩が飛脚制度を抱えているということは、経済的に効率が悪く、後には民間の情報機関に委託することになりました。

 

 

だいたい江戸時代中期ぐらいからは、民間の町飛脚を利用するというのが一般のようです。

 

 

                                    

 

 

「 江戸時代と近代化 」

大石慎三郎著 

株式会社筑摩書房

 

 

~ 大都市を中心にした情報ネットワーク  森谷尅久 ~

 

 

 

 

 もうひとつ情報の活性化という視点で見てみましょう。

 

 

江戸時代の第一期を十七世紀後半の元禄までと考えます。

これは江戸時代の第一期高度成長です。

 

 

非常に大きく成長しておりまして、鎖国、国内統治充実のエネルギーがここでかなりの力を発揮いたします。

 

 

先ほど申し上げた寛文以降の大坂の成長がクローズ・アップされるのもこの時期です。

 

 

大石先生が飛脚の話をされましたが、町飛脚が設置されるのが寛文三年(1663)以後です。

 

 

それまでの幕府飛脚、継飛脚、大名飛脚がだんだんすたれ、町飛脚のほうが繁盛してくるわけです。

 

 

そしてスピードも速くなりました。

 

 

江戸、京都間で言いますと、急ぎ飛脚はだいたい八十二時間で到達するようになります。

 

 

ちなみにそのちょっと前ですと四日間かかります。

普通の飛脚は七日でした。

 

(略)

 

第二期は十八世紀後半の宝暦・天明期です。

これは第二の高度成長期です。

 

(略)

 

 飛脚の時間もこの時期さらに短縮されました。

 

 

江戸、京都間が平均六十八時間になります。

 

 

二・八日強、三日を切るというようなスピードです。

 

 

こうなると早飛脚の能率というか、効用は目に見えて大きくなるでしょう。

 

 

 

 第三期は十九世紀前半の化政期です。

 

 

江戸、京都間の早飛脚は四十八時間、二日になりました。

 

 

ただし、これは仕立てが四両という、かなりの値段です。

 

 

普通便はだいたい四日間ぐらいかけていたようです。

 

                                      

 

 

2017年8月7日に 「戦国武将の書状と飛脚」 と題して小和田哲男の文章を紹介しました。コチラです。  ↓

https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12298608938.html

 

 

 

 

 

                                         10月22日 奈良・東大寺参道にて撮影