「戦国武将の手紙を読む」
小和田哲男 (おわだ てつお 1944~)
中央公論新社 2010年11月発行・より
宛名の市河藤若は、このころ、信濃(しなの)国境で、武田信玄からも招かれ、上杉謙信からも招かれるという立場にあったものとみえ、
信玄としては、なんとか味方陣営につなぎとめておきたいと考えたのであろう。
信濃における自軍有利な戦況を報じている様子がうかがわれる。
文中、「飛脚」 のことばがみえるように、当時、すでに飛脚が文書を届けるということはあったが、特に軍事機密に属するようなものは、飛脚に託すのではなく、文書を持った使者が、直接相手先を訪れ、手渡しするのがあたりまえであった。
それは、飛脚が途中で敵方に寝返り、敵に文書を届けてしまえば、情報が筒ぬけになってしまうし、途中で敵の襲撃を受けて奪い取られるかもしれないからである。
そこで、大事な文書は、家臣の中から選ばれた者が使者となって相手に届けることになる。
その場合、やはり、途中で奪われることを想定し、特に大事な機密事項にかかわる内容は書き込まなかったようである。
この信玄書状に 「猶可有山本菅助口上候」 とあるのがそのことを物語っている。
「委細誰々口上可有候」 などと書かれることもある。
つまり、書状そのものには大まかなことしか書かず、機密事項に属することがらは、直接、使者が口上を述べることになっていたのである。
4月22日 光が丘(東京・練馬)にて撮影