「 私が伝えたかったこと 」
河合隼雄 (かわい・はやお 1928~2007)
現代人株式会社 河出書房新社 2014年3月発行・より
たとえば、エジプトに行ったとき、エジプトに長くいて現地の人とも親しくつき合っている人にお会いしたが、その人によると、エジプト人と親しくなればなるほど、イスラム教に入信することをすすめられて困るという。
エジプトの人たちにとって、イスラム教を信じるのは当然で、それを信じないのは敵か悪人かということにもなろう。
ところが、友人としてつき合ってよい人間と思うのに、それがイスラムを信じないなどというのは考えられないことなのだ。
しかも、イスラム教を信じないどころか、特別に何も信じてないなどと言うと、ただ呆れかえるばかりである。
こんなこともあった。国際交流基金の主催で、カイロで日本の文化について講演をしたが、そのときの聴衆のなかのあるエジプト人が、次のような質問をした。
自分は日本へ行ったことがあるが、日本人はイスラム教を信じず、コーランを読んだこともないのに、コーランの教えを守っているのかと思えるような立派な人が多い。
いったいこれはどういうことなのか、というわけである。
もちろん、日本人に対するお世辞が入っているので、このとおりにも聞けないが、立派な人はコーランの教えによっているはずではないのか、という素朴な気持ちがこめられている。
もう少し異なる例をあげよう、欧米人と話し合っていると、日本の治安のよさや、都会で落とし物や忘れ物をしても返却されてくる事実、阪神淡路の大震災のとき、暴動も略奪もせず、静かに列をつくって、配給される食物を待ってる人たちの姿、などに感心した後で、あれはどのような宗教的倫理観によるものなのか、と質問される。
うっかり 「仏教」 などと答えると、それでは日本人は寺に週に一回は行ってお坊さんの説教を聞くのか、とか仏教の教えをどのようにして教えられるのかなどと訊かれる。
お坊さんの読むお経は一般人には理解できず、仏教の教えを聞くことはあまりない、などと言うと、まったく不可解ということになる。
人間が生きてゆく上で、何らかの宗教が必要であり、それは経典や儀礼などを通じて教えこまれると世界の多くの人が信じているなかで、日本人はよほど特異なのである。
(略)
それともうひとつ一神教を信じる人にとって理解し難いことは、倫理観は何かの宗教に支えられていると彼らが思っているため、日本人の倫理観を支えているものが見えて来ない、ということである。
神の教えということなく、人間が 「~すべし」 と思うことなどあるのだろうか、というわけである。
従って日本人の倫理観の高いのを見ると、「コーランを読んでもいないのに、どうして?」 という疑問になる。
日本人はその行動を律するとき、倫理観よりも美意識によっている方が多いのではなかろうか。
何らかの重大な決意をするとき、「私の美意識によって」 と言ったり、何かに反対するときも、「私の美意識が許さない」 と言ったりする。
その方が一般にも通じやすい。
新聞や雑誌を見ても、著名人が 「私の美意識」 を判断の根拠に持ち出すことが、よく見かけられるが、そのとき 「神の御名によって」 とか 「仏の意思を体して」 という人はまずないと言ってよいほどだろう。
ここで美意識が登場するのはどうしてだろう。
おそらく、日本人の宗教性は偉大な存在、神に対して生じるのではなく、偉大な調和に対して生じるのではなかろうか。
一神教における神という一者、と自分の関係のなかで考えるのではなく、自分をも含めた全体のもつ調和を大切にする。
その調和の感覚を美意識と表現していると思われる。
こんなわけで、日本人は宗教性が低いとか弱いというのではなく、きわめて特異な形で、宗教性を持っている。
このことは、他の文化の人々とつき会うときにしっかりと認識しておかねばならない。
現代人と宗教 無宗教としての宗教
(『季刊アステイオン』53号00.5/『文藝別冊・河合隼雄)』
この事については様々な方が話していたので、2018年6月5日に
「宗教はなぜ生まれたのか?」 と題して紹介しました。コチラです。↓
https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12366245695.html
12月3日 青葉台公園(埼玉・朝霞)にて撮影