「 明日を想う 」
堺屋太一 (さかいや たいち 1936~)
朝日新聞社 2000年9月発行・より
どこの国でもいつの時代でも、笑いや笑顔がいいほうに受け取られたわけではないのだ。
それだけに、古い時代には絵画や彫刻に笑顔を描くことはなかったようだ。
人類がいつごろから笑顔を描くようになったかは案外難しい質問である。
日本でも中国でも、古美術には笑顔がほとんど出てこない。
(略)
西洋では、笑いの問題はもっと深刻だった。
古代ギリシャの哲学者アリストテレスは 「笑いについて」 論じたが、中世キリスト教時代になると 「笑い」 は淫らなもの、少なくとも世俗的なものとして抑制された。
何よりも重大だったのは 「キリストは笑ったか」 という神学論争だ。
もしキリストが笑ったことがあったとすれば、その神性は薄れ、人間的な存在になる。
十三世紀には、こんな論争から異端討伐十字軍まで組織された。
(略)
これぐらいだから、書画に笑顔が描かれることはなかった。
中世の絵画や素描には、地獄の苦しみや神の裁きにおののく表情は多いが、笑いを積極的に描いたものは見当たらない。
ルネサンスに入っても、この点は変らず、ダヴィンチやミケランジェロの大家も、せいぜい聖母はモナリザの表情にひそかな微笑をにじませる程度だった。
(略)
西洋で大胆な笑顔を描いた最初の画家は、おそらくオランダの肖像画家、フラン・ハルス(1580年ごろ~1666年)だろう。
東洋貿易や毛織物工業などで大発展したオランダの商人衆を顧客として自営の画家を営んだハルスには、「笑う士官」 など心地よさそうな笑顔の肖像画がいくつか残されている。
笑顔には、人間的な親しみやすさがあるが、軽薄にも追従にも見える半面もある。
その意味で笑顔は、民主主義と商業主義の象徴といえなくもない。
一方、笑いは神秘性を失わせる。
笑顔のキリスト像は今も見ないし、独裁者も努めて笑わない。
スターリンもヒトラーも笑顔の写真はほとんど残さなかった。
彼らの肖像のほとんどは眼光鋭く睨みつけるような表情のものだ。
テレビと顔写真が氾濫する今日でも、北朝鮮の金正日総書記の笑顔も1990の父・金日成主席誕生日の写真以来、見たことがなかった。
(略)
笑顔は軽い。だが、独裁者的無表情も不気味だ。
二十一世紀は、どちらの時代になるだろうか。
(99・5・7)
2017年12月23日に 「キリストは神か人か?討論と結論」 と題して
小室直樹の文章を紹介しました。コチラです。 ↓
https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12336810080.html
朝霞(埼玉)の花火大会 8月4日 中央公園にて撮影