「 内と外からの夏目漱石 」
平川祐弘(ひらかわ すけひろ 1931~)
株式会社河出書房新社 2012年7月発行・より
松山に着いた 「坊ちゃん」 が 「宿屋に連れて行け」 と云いつけたら、車夫は威勢(いせい)よく山城屋(やましろや)という うちに横づけにした。
二階の階段下の暗い部屋に案内され熱くってたまらない。
茶代をやらないから粗末に扱われるのだと思って大枚五円を膳を持って来た下女に渡し、
「あとで帳場へ持って行け」 と言った。
するとその日、中学に挨拶(あいさつ)に行って帰ったら、
「御座敷があきました」
と今度は十五畳の表二階で大きな床の間のある座敷に案内された。
いい心持ちになって大の字に寝ていたら、
「この部屋かい」
と授業の打合せに来た山嵐に起された。
そして山嵐の周旋で 「いか銀」 という町はずれの岡の中腹の至極閑静な下宿へ引越す。
五円の茶代を奮発してすぐ移るのは残念だが仕方がない。
もっとも 「いか銀」 もじきに飛び出して、今度はうらなり先生の周旋で萩野家の下宿人となる。
ここは 「いか銀」 よりも丁寧(ていねい)で、親切で、しかも上品だが、惜しい事に食い物がまずい。
昨日も芋、一昨日も芋である。
漱石が面白おかしく書いたこの話は誰もが知っている。
それで迷惑したのはモデルと目された宿屋や下宿屋だ。
山城屋が城戸屋(きどや)に当ることは漢字で一目瞭然である。
城戸屋では五円の茶代をもらったからでなく、夏目先生が文学士で月給八十円の高給取りと新聞で知ったから、竹の間から翌日新館一番の十五畳へ移っていただいた、と後に釈明した。
そこはいま 「坊ちゃんの間」 となっている。
「いか銀」 に移ったのは実際は一月後で、主人は確かに骨董屋(こっとうや)だが、その津田保吉が本当に漱石を骨董責めにしたかどうかはわからない。
また次に移った松山の豪商米九の番頭、上野義方の離れ座敷で漱石が毎日毎晩芋責めにあったかどうかは さらにわからない。
2017年9月15日に 『 父・夏目漱石の 「狂気と暴力」 』 と題して
夏目伸六の文章を紹介しました。コチラです。 ↓
https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12309354721.html
2018年8月3日に 『 夏目漱石の 「異様な態度」 』
と題して高橋義孝の本を紹介しました。コチラです。 ↓
https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12393653305.html
朝霞(埼玉)の花火大会 8月4日 中央公園にて撮影