~ そろそろクリスマスなので こんな話を ~
「日本人のためのイスラム原論」
小室直樹(こむろ なおき 1932~2010)
集英社インターナショナル 2002年3月発行・より
何しろイエスは、処女とはいえ人間のマリアから生まれたと聖書に記されている。
人間が神を産むことなど、可能なのか。
さあ、これは大変なことになった。
キリストは人なのか、神なのか・・・・この問題をめぐって、初期キリスト教会はまさに分裂寸前のところまで行った。
この問題にようやく片(かた)が付いたのは四世紀のことである。
キリスト教会の危機を解決するため、ローマ皇帝コンスタンティヌス一世が議長となって、325年、ギリシャのニケアに会議を招集し、
そこでこの問題を徹底討論させた。
そこで出た結論が 「イエスは完全な人間であり、同時に完全な神である」 というものであった。
しかし、この決定にみなが すんなり従(したが)ったわけではない。
なかでも、イエス=人間説を主張していたアリウス派は、
このニケア公会議(こうかいぎ)の決定に不服を唱(とな)えたので、
ただちに異端者として追放された。
ニケア信条を認めるか否(いな)かは、正統と異端を分ける大切な境界線なのである。
現にローマ・カトリックも、ギリシャ正教(せいきょう)も、プロテスタント諸派もニケア信条を信じている点においては一致している。
イエスは人間か、それとも神か。
この問題を解決し、三位一体の説を完成させるためにキリスト教会は大変な苦労をした。
ニケア公会議の後も、451年にカルケドン公会議を開き、
ニケア信条を再確認したのも、この問題をいい加減にしておけば、
キリスト教そのものの分裂や崩壊につながるからに他ならない。
ところが、こともあろうに、中世に入ると、キリスト教会は布教のために 「マリア信仰」 なるものを持ち出すようになるのである。
先ほども述べたように、マリアが人間であることは疑いの余地がない。
そのマリアを崇(あが)めるなどというのは、キリストを人間であると言ったアリウス派よりも異端的と言わざるをえない。
しかし、当時のキリスト教会にしてみれば、どうしてもマリア信仰を持ち出さざるをえない事情があった。
というのは、ゲルマン人やケルト人といった、当時の 「蛮族(ばんぞく)」 たちにキリスト教を伝道するには、キリスト教の教理をそのまま説いても効果がなかったからである。
キリスト教が広まるまでのゲルマン人たちは、自然崇拝の信仰を抱(いだ)いていた。
これら大木(たいぼく)や太陽などを拝んでいた人々に、いきなり 「イエスは人間にして神である」 から信じろ、というほうが無理というものだ。
そこでキリスト教の伝道師たちは、マリアを持ち出した。
これならばゲルマン人たちにも具体的で分かりやすい。
母性愛は世界共通だから、赤ん坊のイエスを抱く聖母像を見せれば、
キリスト教に対する警戒心もなくなるという寸法(すんぽう)である。
黒い肌のマリアと幼いイエス(黒い肌の聖母子)がいい例である。
この工夫があったからこそ、キリスト教はヨーロッパの、そして世界の各地に広がることができたのである。
しかし、何度も繰り返すが、本来のキリスト教から考えれば、
マリア信仰など許されるはずもない。
だいいち、神の母もまた神性(しんせい)を持つとしたら、三位一体説はどうなるのか。
四位一体説にしなければならなくなるではないか。
こうしたマリア信仰を 「愚(おろ)かなこと」 と言って批判したのが、
他ならぬマホメットである。
イスラム教では、三位一体などという、こじつけめいた教説を認めない。
神が人間の形をとって現れるなんて、もっての他である。
キリスト教は自分では一神教と言っているが、現実は三神教ではないかという話はコーランにも記されているほどだ(2ー110、5-19他)。
これはどうみてもイスラムのほうが論理的と言わざるをえない。
東京国立博物館(東京・台東区)の本館の北側の、普段は入れない庭園です、桜と紅葉の時期に開放されるみたいです 11月16日 撮影