「 韓流時代劇と朝鮮史の真実 朝鮮半島をめぐる歴史歪曲の舞台裏 」
宮脇淳子 (みやわき じゅんこ 1952~)
株式会社扶桑社 2013年8月発行・より
ところで、日本も武家社会だった江戸時代に儒教を奨励したといわれますが、ごく一部、それこそ思想の上澄みだけ取り入れたに過ぎません。
古田博司先生は著書 『日本文明圏の覚醒』(筑摩書房)の中で、「日本人は 『論語』 が好きだと言いながら、実際に使っているのはその2割ぐらいだ」 と書いています。
論語の中にある499句のうち、日本人が使っているのは158句だけで、そのうち一般道徳に関するものは102句だけだそうです。
ほかはシナ独特の習俗に基づいて書かれているので、理解できないところは無視した。
しかも、日本人は長い文章のちょうどいいところだけを切り取って、前後のコンテクストは全く無視し、その独立した文章だけを、人が立派に生きるための指針として成立させてしまったのです。
古田先生はわかりやすい一例を挙げています。
「義を見てせざるは勇なきなり」 という言葉はご存知でしょう。
この言葉は、一般に 「人として正しいことだとわかっているのに、実行しないのは勇気がないからだ」 という格言として使われています。
ところが、もともとの意味はそうではないのです。
オリジナルの 『論語』 では、この言葉の前に 「その鬼(き)に非ずしてこれを祭るのは諂(へつら)うなり」 という句が入っている。
「鬼」 というのは漢語で霊魂の意味で、これは 「自分の祖先でもない霊魂を祭ることは、その霊魂に諂(へつら)っているのだ」 ということで、それを判っていながら祭るのは勇気がないからだというのがこの句の本来の意味なのです。
つまり、漢人や朝鮮人にとって、自分の先祖以外の霊は祀ってはいけないのです。
自分たちのご先祖様だけが大事で、他人のご先祖なんかはどうでもよい、その霊を敬う気持ちなんか さらさらないということです。
だから中国では汪兆銘の墓を掘り返して棺桶に火を掛け、墓所はダイナマイトで爆破してしまうようなことが平気でできる。
また韓国では、朝鮮が日本の保護国となった 「第二次日韓協約」 に署名した5人の大臣を”五賊”と呼び、彼らの墓を全部掘り返してしまって、子孫はいまだにお墓をつくれないのだそうです。
実は 『論語』 には日本人の感情では理解できない、こうしたドライな話がかなりの部分を占めています。
ところが、日本人はわけのわからない話は全部放り投げてしまって、残った部分を最大限に生かしました。
日本人はフィルタリングして儒教をそのまま入れなかったのです。
だから、日本には本当の意味での儒教は入らなかったのです。
同様に科挙や宦官も入りませんでした。
これらもやはり日本には合わないと考えたのでしょう。
2017年1月1日に 「支那の儒教」と「日本の儒学」と題して谷沢永一の文章を紹介しました。コチラです。 ↓
https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12197959174.html
朝霞(埼玉)の花火大会 8月4日 中央公園にて撮影