清国の成立と明史の編纂 | 人差し指のブログ

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『 メディアの展開      情報社会学からみた 「近代」 』

加藤秀俊 (かとう ひでとし 1930~)

中央公論新社 2015年5月発行・より

 

 

 

「清」 というのはついこのあいだまでユーラシア大陸の極東部に君臨していた政権である。

 

 

「ついこのあいだまで」 というのは、大正元(1912)年に 「最後の皇帝」

宣統帝(溥儀)が退位し南京を首都とする中華民国が樹立されたとき

まで、ということだ。

 

(略)

 この王朝はかつて女真とよばれていたツングース族のひとつを母体として成立した。

 

 

もともとはおおむね狩猟民。「女真」 という漢字表記は 「ジュルチン」 という音声言語の宛て字だから、べつだん文字に意味があるわけではない。

かれらがチベット仏教の影響のもと、文殊(もんじゅ)(梵語では「マンジュシュリー」)を信仰していたからマンシュウを名乗ることになった。

 

 

「満州」 という表記はもちろん宛て字、ヌルハチという指導者をえてモンゴル東部に国をつくった。

その八男にあたるホンタイジが1636年に軍勢を南にすすめ、漢族を圧倒してしまった。

 

 

べつだん満州軍が格段に強かったからではない。

それまで大陸を支配していた明王朝が脆弱化し、内乱でつぶれかけていたからである。

 

 

そこにもってきて国境を防衛していた呉三桂(ごさんけい)という明の将軍が寝返って満州軍に合流した。

 

こうして万里の長城の北側にいた満州族は呆気なく北京に進駐して明を滅亡させたのである。

 

ホンタイジはこうしてあたらしい清朝の国王になり太宗とよばれた。

 

 

 

 

 明王朝とその版図に生活していた中心的な民族は漢族である。

 

そこにいきなり北方から侵攻してきた満州族は少数民族。

 

 

北京に入るとそれまでの貴族、官僚はもとより人民も新政権のもとに平伏したが、少数民族が圧倒的多数の市民を支配する、というのはまことにむずかしい作業であっった。

 

 

だいいち、言語も習慣もちがう。

 

満州族は満州語、漢族は漢語。文字だって満州族はモンゴル文字から転用した満州文字。

 

それにたいして、漢民族は漢字をつかっている。

 

漢族はコメを食べるが満州族はアワ、カオリャンなどの雑穀を食用にする。

 

 

清朝の支配者は 「辮髪(べんぱつ)」 という髪型で漢族の 「束髪」 

とあきらかに見分けがつく。

 

だから、この新政権は漢語、満語の両語併記で公文書をつくる、というめんどうな作業をしなければならなかった。

 

 

それが日本にもきたものだから荻生徂徠(おぎゅうそらい)なども満州語を学んでいた。

 

江戸時代の日本の 「漢学」 はたしかに漢字を中心にしていたが、新知識を得るためには満州語を学ぶことも必要だったのである。

 

 

 

 

 そのことは明朝が降伏して新政権が成立した歴史的瞬間を目撃した日本人の集団による報告書からもわかる。

 

 

その事情はいま 『韃靼(だったん)漂流記』 として知られている文書にくわしい。

 

それは寛永二十(1643)年に越前、つまり現在の福井県三国港を出航した三隻の北前船の船乗り十五人が日本海で遭難し、数奇な運命をたどって朝鮮北部の海岸から 「韃靼」 に連行されたときの物語。

 

(略)

新政権にとって、この船乗りたちははじめてみる日本人である。

だからいちど顔をみておきたい、という外交的配慮、そして好奇心がはたらいたのだろう。

かれらは厚遇され、ほぼ一年間を大陸ですごして翌年帰国した。

 

 

ついでながら司馬遼太郎さんの 『韃靼疾風録』 はこの漂流記をヒントにして書かれた傑作であった。

 

 

その滞在中、さいしょは手ぶり身ぶりで意思を疎通するだけだったが、

だんだん現地語を学習して簡単な会話はできるようになっていったようである。 たとえば、

 

     馬はたったんにてモウレイと申候。北京にてはマアと申候

     犬はたったんにてはインタホウと申候、北京にてはゴウと申候。

     男をたったんにてはニヤマアと申候。女をハラゼト、小娘をサルハ

     ゼと申候。北京にては男をハンサ、女ヲロツホウと申候。

 

 といったふうに 「韃靼語」 の語彙七十、「支那語」 五十が紹介されている。

 

これらの事例からもわかるように、あきらかにこれらふたつの言語はちがうのだ。

 

 

そのうえ、悲しいことに周辺の少数民族であった満州族の 「韃靼語」 は数千年にわたって洗練されつづけてきた大陸の 「漢語」 にくらべると、語彙がすくない。

 

さらに文字をつかってできごとを記録する歴史、自己表現としての文字、

さらには思索をとりまとめた哲学、思想・・・・そうした高度の治世のはたらきは 「支那文明」 のものであって、とうてい満州族が太刀打ちできない巨大な性質をもっていた。

 

たしかに満州族は軍事的、政治的に 「支那」 に君臨した。

だが文化的には 「支配者」 になることができなかったのである。

 

 

 

 ではどうしてらいいのか、解決策はただひとつ、披征服者たる漢族の文明のなかにみずからを投入して同化してゆくことである。

 

ふつう 「同化」 というのは強者が弱者にたいしておこなう文化的政策のことだ。

 

しかし、このばあいは事情が反転している。

いうなれば 「逆同化」 とでもいうべきであろうか。

 

周辺部族の満州族は漢人文明に全面的に降参し、降参することによって優位に立つ、という逆説的な手法で成功をおさめたのである。

 

(略)

 

 

  変動期をむかえた知識人のすべてがあたらしい政権にたいして好意的だったわけではない。

 

政論にかかわらないことを主義とする書斎派の学者であっても、もともと 「東夷」 とした軽蔑の対象だった異民族が紫禁城の王座についたことをひそかに不快の念をもってみていたであろう。

 

表面的に従順を誓った官僚のなかにも反清感情がなかった、というわけではない。

 

 

 

 しかし、北京に入城した満州族の指導者たちは賢明であった。

 

かれらは滅亡した明王朝の歴史の編纂に着手したのである。

 

さきほどからみてきているように、清は明と戦って勝利をおさめた征服者である。

 

だが、明はじつのところ反乱軍による内乱で弱体化していた。

 

それを形式上は明の正規軍とともに攻撃したのが満州軍だったのだから、清は明の正統な継承者である、という論理も成立する。

 

とすれば、明の正史を記録編纂することは 「後継者」 としての清の義務であり、その事業によってみずからの地位と役割を正当化できる、という利点がある。

だから清王朝は 「明史」 の編纂を開始した。

 

 

 

  しかも心憎いことに、この 「明史」 の史料蒐集や執筆のために学者を公募した。

皇帝みずからが学者を試験して採用する、というのである。

 

試験に合格した学者は 「博学鴻儒科(はくがくこうじゅか)という資格をあたえられた。

 

官僚採用の 「科挙」 とはまったく別口の学者公募である。

 

こうして 「明史」 のために知識人五十人ほどが動員され 「明史館」 という機関が設立された。

 

 

                                                  

 

 

歴史書は日本とシナでは全く違うということを谷沢永一が書いていましたので 『「歴史書」日本とシナの違い』 と題して2015年12月13日に紹介しました。コチラです。↓

https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12105046526.html

 

 

 

 

 

 

 

四ッ谷駅付近(東京・千代田区)にて 3月26日撮影