「明治天皇を語る」
ドナルド・キーン (1922年~)
株式会社新潮社 2003年4月発行・より
明治天皇もある意味では普通の人間なので、好きな人物、嫌いな人物がいました。
大久保利通は、当時の政府内ではずば抜けた才能の持ち主です。
またそれゆえ最高実力者として天皇からの信任も厚かった。
当時の明治天皇がそうであったように進歩的な考えを持つ人物でした。
ただし右翼からは征韓論を潰し西郷を死に追いやった張本人とされ、左翼からも保守主義だと指弾されてしまいます。
大久保利通の暗殺は、天皇にとっても大変ショッキングなことでした。
「最も頼みにしていた臣下を失ってしまった。国にとってもこれ以上不幸なことはない」 と大久保の死を悲しんだ。
(略)
明治天皇が一番信頼していたのは伊藤博文ではないでしょうか。
彼は非常に頭がよく、大久保の死後その地位を引き継ぎます。
(略)
様々な面から、彼は決して理想的な人物ではありません。
ですが、明治天皇がもつ外国観に影響を与える人物がいるとすれば、
伊藤以外に適当な人物は思いつきません。
また伊藤は、ある意味で明治天皇と同じコースを歩んだといえます。
両者の共通点は、まず若いときに非常に進歩的な空気のなかで育ったこと、攘夷的な考えを持っていなかったこと、そして晩年は保守的な考えに傾いたことです。
西郷隆盛も天皇の好きな人物の一人でしょう。
ただ私をはじめ外国人にとって、西郷という人物はどうも理解しにくい人物です。
なぜ日本人にこれほど人気があるのか。
日本人で彼の名を知らない人はまずいない。
たしかに江戸城開城の際は手柄を立てます。
しかし、彼のお陰で薩摩が立派なところになったとはいえない。
にもかかわらず、彼の銅像が上野公園に建っているのは不思議なことです。
西郷は反乱を起こし官軍と戦ったわけですから、外国人の理解からすればまずもって国賊です。
(略)
しかし、実際に会えばおそらく大変魅力的な人物だった。
どんな人が会っても、特別だと思わせる何かがあった。
明治天皇もまた彼の魅力を感じた一人だったのでしょう。
そうでなければ、明治天皇はもっと早く西郷率いる賊軍を撃滅せよと命じたはずです。
それがなかなか命令を下さなかったのは、長く側近として仕えてくれた臣下の心中を思いやり深く憐れみ、それゆえ決断が辛かったからだと思います。
外国人からすれば、天皇のこういった感情はいたって不思議です。
信頼していた臣下が反乱を起こせば、ヨーロッパの君主なら激怒するに違いないからです。しかし、明治天皇は西郷に対し憐憫の情をもち続けます。
(略)
西南の役のとき、明治天皇はほとんど何もできないような状態で、行幸先の京都で塞ぎ込んでいました。
毎朝三条実美から戦局を聞くぐらいで、めったに御学問所にも足を運びません。
大臣でさえもなかなか天皇に会うことができない。
明治天皇は乗馬がとても好きだったので、周囲の人たちがいい運動になるからと乗馬を勧めましたが、それすら拒絶しています。
あまりにも憂鬱だったのです。
どうしてかというと、西郷隆盛という人物が好きだったということもあるでしょうが、日本人が日本人を殺すことを、非常に嫌っていたからです。
(略)
天皇が嫌っていたのは、陸奥宗光、尾崎行雄ら、
陸奥のことは本当に嫌いだったようです。彼は政府転覆を企む陰謀に加担して投獄されますが、同じ理由で刑を受けていた人が恩赦で釈放された後も、明治天皇の意向で彼だけは釈放されなかったぐらいです。
尾崎が明治三十一年、第一次大隈内閣で文部大臣として推薦されたことに、天皇は珍しく異議を唱えます。
その前年に外務省在官のまま倒閣運動に参加し、懲戒処分となっていたからです。
尾崎は大臣になった後も問題を起こします。
彼は演説で 「日本で共和政治が行われる気遣いはないが、仮に行われることがあるとすれば三井、三菱が大統領となるだろう」 と述べた。
この発言が、国体を破壊するものだと方々から総攻撃を受けます。
起こった天皇は、総理大臣の大隈重信に 「このような大臣は信任しがたい。速やかに辞任させるべし」 と伝えた。
尾崎が共和国の可能性に触れたことすら、国を治める天皇にとっては許しがたいことでした。
のちに尾崎は天皇に直接謝罪する機会を得るのですが、その際に詫びるというよりは弁明に終始したため、さらに不興を買ってしまいました。
尾崎は文部大臣を辞任しました。
それから、これは私の個人的な意見ですけれども、乃木希典も嫌いだったと思います。
乃木は軍人の地位としたは大将どまりでした。
東郷平八郎はのちに元帥にまでなったのに、です。
日露戦争後、明治天皇は乃木を学習院長に任命しました。
それは軍人として名誉ある仕事なのでしょうが、乃木大将は特別に教育者として知られているわけではありません。
立派な人物ではありました。しかし、教育に強い信念があったというわけでもない。
ある時期、陸軍参謀総長の退役が迫ったときに、山県有朋は後任として乃木希典を推挙しました。
ところが、明治天皇は断っている。学習院長の後任がなかなか見つけられないというのです。
そうかもしれませんけれども、しかし陸軍軍人にとっては参謀総長になることが一番の望みであるのに、学習院長として終わらせたのは、明治天皇の気持ちと関係があったと思われます。
乃木希典に対し、明治天皇には許すことができないことが一つありました。
それは日露戦争での旅順攻撃のときに大勢の日本兵が死んだことです。
その責任は乃木の戦術にあったと明治天皇は考えていたと思います。
「乃木も宜(よ)いけれども、ああ兵を殺すやうでは実に困るな」 と述懐したそうです。
四ッ谷駅付近(東京・千代田区)にて 3月26日撮影