天台座主の慈円僧正(じえんそうじょう)が書きあげた「愚管抄」(ぐかんしょう)も特記すべきであろう。
中国では、皇帝の命令のもとに歴史の編纂局がつくられ、しかるべき人間が総裁になって史書をつくる。
個人が歴史を書くこともなくはなかっただろうが、しかしそんなものは絶対に世の中には出ない。
正史とちがったことを書いていれば、大変な逆心である。首が飛ぶ。
したがって個人が書いた史書はペラ一枚残っていない。
個人あるいは民間で史書を編むなどという不敬は断じて行われなかった。
ところが日本はちがう。
天台座主とはいえ、一坊主が日本国はじまって以来の歴史を滔々(とうとう)と書いたのである。
しかもそれが大傑作であった。
もとより印刷の当てなどなかったろうが、それでも慈円は書いたのである。
「年のたつにつけ、日のたつにつけて物の道理ばかりを考えつづけ、年老いてふと目ざめがちな夜半(よわ)のなぐさめにもしているうちに、いよいよわたくしの生涯も終りに近づこうとしている。世の中を久しい間見てきたのであるから、世の中が昔から移り変わってきた道理というものも、わたくしにはしみじみと思いあわされてくるのである・・・・」(巻第三、大隈和雄訳)
考えてみれば、「平家物語」も広い意味で史書ということができる。
日本人の精神は中国人とはよほど異なっていたと見るべきだろう。
「日本人が日本人らしさを失ったら生き残れない」
谷沢永一(たにざわ えいいち 1929~2011)
ワック株式会社2006年2月発行・より
光が丘公園(東京・練馬区)12月7日撮影
![光が丘公園の紅葉](https://stat.ameba.jp/user_images/20151212/16/hitosasiyubidesu/b7/55/j/o0567042613509607795.jpg?caw=800)
![光が丘公園のもみじ](https://stat.ameba.jp/user_images/20151212/16/hitosasiyubidesu/a8/77/j/o0567042613509607796.jpg?caw=800)