人間的な日本文化 | 人差し指のブログ

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日本文化は徹底して人間的かつ具体的なのである。

このことは「源氏物語」の「蛍の巻」について見てもわかる。

源氏の君は玉鬘(たまかずら・源氏が愛した薄幸の女性・夕顔の遺児)に向かって「日本紀(にほんぎ)などはただかたそばぞかし、これら(物語)にこそ道々しくくはしきことはあらめ」

と微笑する。官撰のつまり表抜きの形式で編纂された「日本書紀」などは真実の一斑(いっぱん)しか記録していない。

それに対し、いまこの部屋に散らばっている物語のほうにこそ人生の実相に迫るこまやかな事情が写し取られているのでしょうね  と源氏(紫式部)はいったのである。


これは凄い言葉ではないか。

「日本書紀」は公式の歴史書として尊重され、宮廷で講書も行われた。

ところが、そんな「日本書紀」「続日本紀(しょくにほんぎ)」「日本後紀」「日本文徳天皇実録」「日本三代実録」という公式的な六国史(りっこくし)について、「あんなものは物事の側面しか描いていない」と斬って捨てた。

換言すれば、文学とは人情の探求であり、人間性の表現であると喝破した。

最も正統的というべき文学の本質論を、ほぼ千年前に世界で初めてひとりの日本女性がズバリと言い当てた。

だから日本人はみな、紫式部を偉いというのである
(略)
ただし、いかに才能ある紫式部とはいえ、無にして空の虚空(こくう)から物事の真実を掴み出すことはできない。

「日本紀などはだだかたそばかし」と源氏にいわせたとき、彼女がイメージとして浮かべていた物語があるはずだ。

それは「大鏡」「水鏡」「増鏡」の「三鏡」に連なるような民間ヒストリーであっただろと、私は考えている。

じっさい、当時にあっては公式的な宮廷ヒストリーと併行して非公式の民間ヒストリーともいうべき史書があったのだ。

成立は「源氏」(1000年ごろ)より若干遅れるが、「大鏡」(1080年ごろ)などは宮廷政治における藤原氏の政略を暴いた、史書の最高傑作である。


関白・基経(もとつね)の四男、太政大臣の藤原時平は右大臣・菅原道真(すがわらのみちざね)を太宰権師(だざいのごんのそち)に叩き落とした・

さらに藤原一族に包囲された左大臣・源高明も太宰権師に追いやられている。

そして関白・兼家の第四子である道兼は、六十五代・花山天皇(かざんてんのう)が愛妃(あいひ)・弘徽殿女御(こきでんのにょうご)に先立たれ悲嘆に沈んでいると「ともに出家せん」といって天皇を花山寺に誘い出し、天皇の出家を見届けてから自分は逃れた。

まんまと十九歳の天皇を計略にはめたのである・・・・

こうした物語が日本では一度も焼かれず、弾圧もされず、いまに至るまで残っているのである。

どうしてそんなことが許されたのであろう。

公的な史書を貶めるような先の「源氏」の物言いといい、並ぶものなき権勢を誇った藤原氏の策略を暴いた民間史書といい、

平安朝の宮廷は(謀反については別として)「異端」に対しきわめて鷹揚(おうよう)であった

「日本人が日本人らしさを失ったら生き残れない」
谷沢永一(たにざわ えいいち 1929~2011)
ワック株式会社二〇〇六年二月発行・より

青葉台公園(埼玉・朝霞市)12月6日撮影

もみじ


楓の紅葉