明治期の地方出の文士と東京語 | 人差し指のブログ

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「長谷川如是閑 ある心の自叙伝

長谷川如是閑 (はせがわ にょぜかん 1875~1969)

株式会社日本図書センター 1997年12月発行・より

 

 

 

 そのような、何事をも茶化したがる都会人遁避主義のお陰で、明治時代になっても、都会の江戸ッ児は、時代の歴史の当面に立つことを避けて    というより立ち得ないで    ただ横合いから、批判的の白眼で時代を睨んでいるのにとどまったのである。

 

 

 

だから明治時代に幅を利かしていたものは、みな地方出の人々で、いわゆる 「田舎もの」 ばかりだった。

 

 

江戸ッ児で世に聞こえていたものは、今いうインテリと小説家だけだった。

殊に小説家は江戸生まれに独占されていた。

 

 

 

これは小説には必ずなくてはならぬ会話の直写が 「田舎もの」 にはどうにもならないからであった。

 

 

明治末までは、地方出の文士は、先ず先輩の文士の家に寄食して、東京語に馴れるのを待つ外はなかった。

 

 

坪内逍遥などは、美濃の産で、十八歳の歳に東京に出たが、大学を出るころには、すっかりあの猛烈な名古屋訛りを克服して、立派な東京語を話すようになって、漸く小説を書き出したのであった。

 

 

戯作者の流れを汲んだ明治初期の文士は、むろんすべて江戸ッ子だったが、やがて生まれた新時代の小説家の皮切りも、二葉亭も紅葉でも、露伴でも、みんな都会人だった。

 

 

政治も産業経済もすべて田舎ものの手に帰した時代だったが、都会的文化性の所産であるインテリと文学者だけは、都会人によって占められたのだった。

 

                                       

 

 

2016年7月6日に「漱石の落語と鴎外の標準語」と題して丸谷才一と山崎正和の対談を紹介しました。コチラです。↓

https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12175524212.html

 

 

 

 

3月26日 九段(東京・千代田区)にて撮影