「漱石の落語」と「鴎外の標準語」 | 人差し指のブログ

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「日本語の21世紀のために」
丸谷才一・山崎正和
株式会社 文藝春秋 平成14年11月発行・より


<丸谷>   そうですよ。漱石はさんざん落語を聞いてるもの。 鴎外は・・・・。

<山崎>   真面目な人で、しかも標準語を一所懸命に勉強した人ですからね。

<丸谷>   そうです。だから、やっぱり不自然ね。

<山崎>   ただね、日本語について意識的だったのは鴎外で、漱石は実にいい加減なんですよ。

自分が江戸っ子で、もう生まれついたときから慣れてるから、言葉なんて俺の言い方、書き方が正しいんだという意識があるでしょう。

魚の秋刀魚(さんま)を 「三馬」 と書くんですからね、平気で。

<丸谷>   そうそう。それはもう、いい加減だ。


<山崎>   そこは面白い逆説でね、まさに日本語の全体像を反映してるんですよ。

つまり、田舎から出てきて東京大学を出て陸軍に入って、それで一所懸命悲しい小さな日本国家を背負っている鴎外としては、いい言葉を書かなきゃいけない。

だって、現実に彼は東大に入ったとき、友達にさんざん方言をいじめられるんです。

<丸谷>  あ、そうですか。

<山崎>  お父さんが寄宿舎の鴎外を訪ねてくるんです。

するとお父さんに友達があだ名をつける。それが 「きんれい」 というんですよ。

「きんれい」というのは 「いらっしゃい」 つまり 「帰っておいで」 という意味らしいですけど。

そういう中で歯を食いしばって、鴎外は日本語をつくる。

その点、都会っ子の漱石は気楽でいいですよ。いまだにわれわれは、そのギャップを背負っているんでしょうね。

<丸谷>  お父さんの方言のことは『ヰタ・セクスアリス』にありましたね。思いだした。

漱石の背景には古い江戸文化がありましたからね。ごく自然なかたちで。

標準語をわざわざ学ぶ必要もないし。そこは鴎外と漱石の大きなちがいでしょう。


光が丘 四季の香公園の薔薇(東京・練馬)5月9日撮影