「明治天皇を語る」
ドナルド・キーン (1922年~)
株式会社 新潮社 2003年4月発行・より
明治二十七年、朝鮮での清国相手の海戦と陸戦で勝利、壊滅的に敗走させたのち、日本はついに宣戦布告します。
(略)
宣戦の詔書が公布された直後、そのことを伊勢神宮や孝明天皇陵に報告する勅使の人選を宮内大臣が天皇に相談します。
その返事が驚くべきものでした。
「その必要はない。自分はそもそもこの戦争には反対だったが、皆が開戦は避けられないというので許しただけだ。それゆえどうして先帝らに報告できるか」
宮内大臣は驚き、「天皇自らが宣戦を布告し、戦争はもう始まったのです。今になってそれをやめることなどできない」 と、天皇を諫めようとした。
しかし 「二度とお前には会いたくない」 と逆鱗に触れてしまった。
天皇は多くの日本人が殺されることに堪えられなかったか、日清間の戦争が第三国に介入の機会を与えるのではないかと心配だったのかもしれません。
あるいは、到底清には敵わないと考えたのかも知れない。
儒教を重んじる天皇として、その考えを生み出した国と戦うことを避けたかったとも考えられます。
怒り狂った翌日、天皇は 「祖先の神々や先帝に報告する者を速やかに人選せよ」 と命じます。
もう中止は不可能であることを悟ったのでしょう。
これ以後、戦争終結までそのような迷った態度は見せることなく大元帥としての務めを果たしました。
(略)
戦争が勝利に終わり清と講和条約が結ばれたのち、天皇は両国の友好関係回復に関する詔書を公布しました。
平和の保持こそが天皇の使命である。
しかし不幸にも両国の間に戦争が起こってしまった。
勝利できたのは国民すべてのお陰である。
そして最後に日本が勝利に驕慢となり、理由なく相手国を侮辱するなど友好国の信頼を失うことがあってはならない、と述べている。
これは極めて意外な発言です。
大体において、当時の王様か大統領が、戦争が終わってすぐに言うのは、憎むべき敵に勝ってよかったというようなことでしょう。
ですが明治天皇にはそれらしい発言がまったくなかった。
彼は、清国とまた伝統的ないい関係を早く結べることを望んだのです。
北の丸公園(東京・千代田区)にて3月26日撮影。この公園は小高い所にあるので、これは人工の渓流です。