「戦国武将を育てた禅僧たち」
小和田哲男(おわだ てつお 1944~)
株式会社新潮社 2007年12月発行・より
禅僧が実戦に従軍し、采配をふったのはたしかに珍しい例である。
しかし、戦国時代、陣僧とよばれる従軍僧が軍団の中に多数存在したことは事実である。
(略)
陣僧とは祐筆的性格や使僧的性格よりも、大橋(俊雄しゅんのう)氏が前掲論文でいう 「仏の教えを説き、戦陣にある将兵たちに生きるささえを教え(中略)、ときに死体処理にも当たった 『従軍僧』」 というのが実際の姿に近かったのではないかと私も考えている。
その他では注目されるのが 「従軍医」 的側面である。
時代がやや下がるが、豊臣秀吉による二度の朝鮮出兵での、二度目、
すなわち慶長の役のとき、豊後臼杵の浄土真宗寺院である安養寺の住職であった、慶念が陣僧として渡海しており、彼の残した 『朝鮮日々記』 によると、主な任務が従軍医だったことがわかる。
僧侶が医学的知識をもっていたことはよく知られている。
足利学校での主要学科目に医学が入っており、卒業した禅僧たちは医学的知識をもっていたのである。
合戦場で応急手当が必要なとき、そうした従軍僧の存在は相当重宝がられたのではないだろうか。
ほかに、戦勝祈願の加持祈祷を行ったり、合戦の日を占わせたりしたが
(略)
こうした様々な任務を担う禅僧は戦国武将たちにとって不可欠な存在だった。
では、それぞれの戦国大名家で、どれくらいの陣僧がいたのだろうか。
(略)天正元年(1572)段階の武田氏の最大動員兵力はおよそ二万五千で、六万というのはオーバーである。
こうした数字は半分ないし三分の一とみた方がよく、坊主の数も三百人から二百人程度が実際の数に近いものと思われる。
二万五千の軍勢に、三百人だとやや多い印象だが、当時の禅僧をめぐる状況からは二百人ならありうる数字ではないかと私は考えている。
『イエズス会士日本通信』 の訳者、村上直次郎氏は、「信玄の伴へるは僧侶にあらずして入道して法体となれる武士なり」 と注釈を加えている。
たしかに、出家した武士も含まれていたであろうが、ほとんどは陣僧だったのではなかろうか。
戦国時代では出陣の際、寺院から相当数の陣僧が動員されているからである。
2016年9月9日に~戦国時代の「戦の傷の原因」~と題して堺屋太一の文章を紹介しましたコチラです。↓
https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12196341220.html
昨年11月27日 平林寺(埼玉県・新座)にて撮影