戦国時代の「戦の傷の原因」 | 人差し指のブログ

人差し指のブログ

パソコンが苦手な年金生活者です
本を読んで面白かったところを紹介します





種子島(たねがしま)に鉄砲が伝わったのは天文十二年(1543)のこととされている。

時あたかも戦国の世であったために、この新兵器はたちまち全国に知れわたり、三十余年後の長篠の合戦頃には全国の戦場で多用されていた。

『毛利家軍忠書』 には、古くからの戦闘における戦傷者の傷の内容が詳しく記載されているが、

それによると弘治年間(1555~58)までは矢傷がもっとも多く、ついで礫(つぶて)や槍による負傷が多い。

それが次の永禄年間(1558~70)に入ると鉄砲傷が断然多くなり、矢傷や礫傷は大幅に減る。

これからみても、1560年までに西国の戦場では鉄砲が重要な兵器となっていたことが分かる。

遅くとも1560年代のうちには、全国に鉄砲は普及していたことであろう。

『歴史に学ぶ 「勝者」 の組織革命』
堺屋太一(さかいや たいち1535~)
株式会社集英社 1999年7月発行・より

シモツケの花 6月24日中央公園(埼玉・朝霞)にて撮影