「日本人と中国人 ”同文同種”と思い込む危険」
陳舜臣(ちん しゅんしん 1924~2015)
祥伝社2016年11月発行・より
前章に重いかんじの引用があったから、この章では軽い文章を再録する。
楽観論の埋め合わせに、悲観論を持ち出す。 私のこんな態度は、どうやら中国人特有の 『相称性(シンメトリー)』 をよろこぶ性格から来ているかもしれないのである。
中国は文字の国だから、慶弔を問わず、何かあると 『聯(れん)』 といって、左右に一行ずつの文章を書いたのを、門や壁に飾りつける。
それは、きまって左右がなんらかの意味で、対(つい)をなしている。
詩聖といわれた杜甫は、律詩(りっし)を得意としたが、この律詩は、八行詩のなかに対になった句を二組いれなければならない規則がある。
(略)
これは、さまざまな人種が陸つづきの土地で、複雑にからみ合っているうちに、和平に必要なのは妥協と譲歩であることを体得し、
そのために、バランスをとる才能が養われたのであろう。
いろいろと説得しても、
Aはこうした。その埋めあわせに、Bにはこうしてもらう。・・・・
といったたぐいの、均衡を保つための折衷(せっちゅう)が、けっきょく実際的に最も効果がある。
何千年のあいだ、中国人はバランスをとる作業をやって、『対句(ついく)』
づくりの名人になってしまった。
漢詩にかならず対句にしなければならない規則があるのも、根ざすところは深いといわねばならない。
中国人にとって、均衡のとれていないのは 『美』 ではない。
極端にバランスのくずれたのは、罪悪の部類にはいる。
ところが、日本ではこのようなシンメトリカルの美は、それほど高く評価されなかったようだ。
バランスがとれているのは、そこに人間の力が加えられているからである。
日本人は人工の美をきらった。たとい人間の力が加えられていても、
それを目立たせないように工夫する。
日本人はさりげないのが好きなのだ。
~(人差し指の変な記憶)~
昔、テレビ番組で徳川夢声がヨーロッパに行った時の話をしていました。
彼はその国の人から日本の事を話してくれと言われて
「西洋は左右対称だが、日本はそうではない」 と話したそうです。
・・・・・・・・五十年も前のこのような事をなぜ覚えているんだろう?。
「陳さん、左右対称は中国だけではなくて西洋もそうですよ」 と言ってあげたいが・・・・・・もう亡くなっているし・・・・・。
昨年11月27日 平林寺(埼玉県・新座)にて撮影