冷血・大久保利通 | 人差し指のブログ

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「知ったかぶり日本史」

谷沢永一(たにざわ えいいち 1929~2011)

PHP研究所 2005年2月発行・より

 
 
 
大久保利通が人非人(にんぴにん)の冷血であると見た司馬遼太郎は、
『歳月』 の一節になまなましく描写した。
 
 
同じ思想の同志である筈(はず)の田中河内介(かわちのすけ)とその子を護送する任を帯びた大久保は、船のなかに牢をつくり、後ろ手に縛(しば)り足枷(あしかせ)をはめた父子をころがしておき、船が小豆島(しょうどしま)の沖を通過するころ、そのままの姿を槍でめった突きにして殺して海に放りこんだ。
 
 
のち豊後岡(ぶんごおか)藩士小河一敏(おごうかずとし)が、明治天皇の前で、
田中河内介どのを殺しましたるは、この座にいる大久保一蔵(いちぞう)
ござりまする、と指をあげて大久保を指したとき、大久保は遂に顔をあげえなかった。
 
 
大久保利通は同藩の士を消すのに吝(やぶさ)かでなかったように、
同僚を葬るのに異様な情熱を示した。
 
 
 
大久保はついさきほどまで同じく参議として肩を並べていた江藤新平(えとうしんぺい)が、軽率にも蜂起(ほうき)するように工作してゆき、まだ踏みきってもいない江藤を処理すべく、出世のためなら手を汚すのを厭(いと)わぬ河野敏鎌(こうのとがま)を裁判長と決め、ワンセットの法廷を福岡に用意した。
 
 
 
法律やら裁判やらが強い方につくこと昔も今も変わりない。
そして江藤新平は梟首(きょうしゅ)となった。
(さら)し首である。
 
 
 
すなわち大久保利通は、まだはっきりと事を起こしてもいない
誰彼(だれかれ)を、さまざまな方法により手をまわしてそそのかす腕前と
企画において抜群であった。
 
 
暗闇で事を為(な)す謀略の才である。
 
 
西南(せいなん)の役(えき)が起きる直前、いかにも廻し者めいた者が何人も薩摩に入国したので捕らえてみれば、まあ喋(しゃべ)るわ喋るわ造作(ぞうさ)をかけず、西郷隆盛を暗殺するために来たと白状したという。
 
 
(ども)る僧正(そうじょう)が世にありえないのと同じく、
喋るスパイというのもこれまた稀少(きしょう)であろう。
 
 
彼らが白状するために、それによって薩摩健児を激怒させるために使命を帯びて派遣されてきたのであること明白である。
 
 
 
 
西郷隆盛の死は明治十年(1877)九月二十四日、そして大久保利通は明治十一年五月十四日、紀尾井(きおい)坂において、石川県士族島田一郎はじめ六名によって殺された。
 
 
それを聞いたとき、さきほどの小河一敏は、しばらく息を忘れたごとく感慨にふけったのち、     アア、天トイウモノハアルモノカ、と言って長嘆息した。
 
 
 
 
大久保利通が大蔵卿であったころ、
その次官として仕えたのが渋沢栄一(しぶさわえいいち)である。
 
 
日本経済を近代化へ向かって成長させるべく、もっとも効果的にリードしたこの無欲な経済通は、大久保利通が現実の経済を寸毫(すんごう)も理解せず経済理論に至っては無学無知であることにほとほと困惑し、
とうとう愛想をつかして辞職した。
 
 
 
大久保が近代経済の育成にプラスになるような政策を打ちだしたという
(はや)し文句を聞くけれど、具体的な証拠を示された覚えはない。
 
 
 
人間を評価するのに、もとより全体像を見わたすことが肝要であること言うまでもない。
 
 
しかしまた、おおむね矛盾にみちた人間性の構造を見るのに、決め手となる水源のような特殊の一点が見出せる場合もなきにしもあらずであろう。
 
 
大久保利通による田中河内介の処遇はそのような要(かなめ)をなすであろうかと思われる。
 
 
                                    
 
 
 
渋沢栄一も大久保が嫌いだったようです。2016年10月16日に
大久保利通は「厭な人」だったと題して渋沢の発言を紹介しましたコチラです
 
 
 
 
朝霞中央公園(埼玉)にて 昨年11月29日撮影