私は大久保利通(としみち)公にひどく嫌われたものであるが、
私もまた大久保公をいつも厭(いや)な人だと思っていた。
しかし、たとえ公が私にとって虫の好かない厭な人であったにしろ、
公が達識であったのには驚かざるを得なかった。
私は公の日常を見るたびに、「器(き)ならず」 とは大久保公のごとき人を言うのであろうと思っていたのである。
たいていの人は、いかに見識が卓抜であるという評判があっても、
その心中のおおよそは、はたからうかがい知ることができるものだ。
しかし、大久保公に至っては、どこが公の真相であるか、何を胸底に蔵(かく)しているか、
不肖の私などには到底知ることができるものではなく、
底がどれぐらいあるのか、まったく測ることのできない人であった。
少しも器らしいところが見えず、人には容易に察することをさせない、非凡な達識を持っていた。
私もこれには常に驚かされて、公に接すると、底が知れないだけ、不可解に感じられた。
これが私をして、何となく公を厭な人だと感じた一因だろうと思う。
「現代語訳 経営論語
渋沢栄一 (しぶさわ えいいち(1840~1931)
ダイヤモンド社 2010年12月発行・より
8月26日 中央公園(埼玉・朝霞)にて撮影
![太陽ー10-16](https://stat.ameba.jp/user_images/20161015/05/hitosasiyubidesu/39/d5/j/o0567042613773142027.jpg?caw=800)