「初めて世界一周した日本人」
加藤九祚 (かとう きゅうぞう 1925~2016)
株式会社新潮社 1993年9月発行・より
本書は今から200年前の1793(寛政5)年11月、宮城県石巻港から
船出した若宮丸の乗組員16人の漂泊とその背景の物語である。
彼らは、船に御米2330俵と御用木など400本を石巻から
江戸に回送する途中に暴風に遭い、北太平洋の島に漂着し、
その後,ロシアに送られます。(人差し指)
そのうち12人は死亡したりロシア(シベリア)に残留したりしたが、
津太夫ら4人は1804(文化元)年秋、ロシア初の世界周遊船ナジェジダ号に乗せられて長崎に送還され、翌年夏故郷に帰りつくことができた。
彼らは、結果的にみて、石巻から石巻まで、日本人としてはじめて世界を一周し、その見聞を日本につたえたのである。
またシベリアに残ったキセリョ善六らは日露両国の友好のためにその生涯を献げた。
津太夫らの11年にわたる漂泊は、漂流からペテルブルグまでと
ナジェジダ号に乗船して帰国するまでの二部に分けることができよう。
一部と二部を通した資料としては、当時の蘭学者大槻玄沢と志村弘強が仙台藩命によって津太夫らから直接話をきいてまとめた 『環海異聞』 がある。
これは、津太夫らよりも12年前にロシアから帰国した伊勢の大黒屋光太夫らと蘭学者桂川甫周の著になる 『北槎聞略(ほくさぶんりゃく)』 とともに、江戸時代日本人の外国に関する直接的見聞記として名著に数えられている。
(略)
1803年6月5日(以下の日付はロシア側資料による)、ナジェジダ号、ネワ号の両船がクロンシュタットに入港した。
(クロンシュタットはペテルブルグの北西約30キロにある都市・人差し指)
(略)
ナジェジダ号はレザノフとクルゼンシュテルン、日本人を含んだ乗組員総数85人、ネワ号はリシャンスキー船長以下48人であった。
(略)
1803年7月26日(新暦8月7日)朝、万国旗で飾った両船は見送りの人たちや祝砲に送られて出帆した。
(略)
長期の船旅は人びとを人間嫌いにさせるようだ。
日本人たちの船室は別にあって、食事も別に配られたようである。
(略)
船がもし遅滞なくホーン岬を迂回できたら、
チリに寄港するとの予定がつたえられた。
(略)
3月14日、順風に乗ってホーン岬の緯度を通過した。
太平洋に出て、船は北北西に針路をとり、天候は日ましに暖かくなってきた。
(略)
五月五日、夜間、はげしい雷雨に見舞われ、昼間は曇っていた。
六日の認めた夜明け頃、約三〇マイルのかなたに
マルケサス(マルキーズ)諸島中の小島ファクトゥフクを認めた。
(略)
五月七日早朝、ヌクヒヴァヒ島の北東端を目指して進んだが、
このとき南西方にウアポウ島も見えた。
これは、島全体が大きな塔をもつ古代都市のように見えた。
10時頃、風からよく守られた良港に入り、
ゴロヴァチェフ中尉がボートを下ろして深さを測った。
まもなく、数人の島民が海岸を走る姿をみとめた。
(略)
小舟にヨーロッパ人がいることを思わせた。予想は的中した。
(略)
・・・・・このイギリス人が言うには、もとイギリス商船の船員であったが、
船内での不和のためにこの島に残され、すでに七年住んでいる。
ここで彼は酋長の親族の女性と結婚し、島民の尊敬を集めている。
(略)
また、津太夫ら日本人も、この島での見聞を 『異聞』を通じてつたえている。オセアニア民俗学のすぐれた学者石川榮吉(東京都立大学名誉教授)はその大著 『日本人のオセアニア発見』(平凡社、1992年刊)の中で
「これは記録に残るかぎりでは、日本人として初めてのポリネシア見聞ということになる」
(略)
1595年スペインの航海家メンドーニャ・イ・ネイラによって発見され、
ペルーの副王夫人であるメンドーサのマルケーサ(公爵夫人)の名に
ちなんで、マルケサスとよばれるようになった。
1774年、有名な航海家ジェームス・クックハタフアタ島を訪れている。
その後ヨーロッパやアメリカの貿易船や捕鯨船が出没するようになり、
マルケサス諸島の先住民は、イースター島やハワイ諸島の場合と同様に悲惨な運命をたどることになった。
(略)
ナジェジダ号が投錨地に向かったとき 「男女共に海に飛び込ミ船に近寄来る事、魚の泳ぐが如し」 であった。
「これらの島民は物々交換を求めてあらわれたのであった。交換されるものは、島の側からは島の産物もしくは女性、そして船の側からは鉄釘をはじめとする何か鉄製品、あるいは小間物というのが、当時のポリネシアでの物々交換の一般的な型であった」(石川栄吉による)
(略)
クルゼンシュテルンは書いている。
「日暮れとともに男たちはみな海岸へ泳ぎさった。しかし100人あまりの女性たちは船のそばにのこり、・・・・・あわれっぽい声で船に乗せてくれるように頼んだので、私はそれを許した。しかしこの処置について、船員たちが欲情の満足を許されたと考えないように、二日後からはきびしく禁止した。
毎夕50人あまりの女性が船から離れないで懇願し、銃声によって
おどかすまで去らなかったけれども 」。
翌朝早く、その女性たちは空きびんや割れた陶器、色とりどりの布切れ、鉄片などのプレゼントを手にして甲板に現れ、海に飛び込んで泳ぎ去った。
クルゼンシュテルンは、「何よりも私を驚かしたのは、八歳くらいの少女が十八歳や二十歳の仲間に混じって、恥ずかしげもなく自らを売っていたことである
私はあわれみと恐れをもって、全く子どものようなこの幼稚な娘を眺めた。
彼女たちは、自分たちのみじめな状況についてわずかな自覚を持つことなく、笑い、たわむれていた」 と書いている。
ラングスドルフによると、その状況はつぎの通りであった。
夕方になると大部分の島民は帰って行った。
彼らの一部は少なくとも四-五時間にわたって絶えず泳ぎながら叫んでいた。女性や少女たちは、男性よりも聞きわけがなかった。
おそらくは彼女たちは、ナジェジダ号以前にこの島を訪れたヨーロッパ人によって、こうした外国人は結局彼らの要求を入れることを知っていると思われた。彼女たちは一般に、すべて魅力をさらけ出していた。
身につけているものと言えば、大きな木の葉一枚であり、
それも長時間およいでいる間に落ちてしまっていた。
しかし彼女たちは恥部を手でかくしたりして、
露出しないようにつとめていた。
まもなくヴィーナスたちはひとりまたひとりと、船員たちと手に手をとって船の内部空間に消えて行き、夜の女神はその暗いヴェールをもって、
起こり得るすべてのことをおおいかくした。
「こうして新しくて異常な、そして未だかつて経験したことのない滞在の一日が終わった。翌日の早朝、彼女たちはつぎつぎに、ぴょんぴょんはねながら甲板に現れ、さまざまな贈物を手にして、近くの海岸に泳ぎ去った」。
レーヴェンシュテルンの日記には、つぎのように書かれている。
「船長クルゼンシュテルンは女性たちに、ことが秘密のうちに運ばれないようにと毎日船にくることを許した。
すべては見事な秩序の中で行われた。
一日の仕事の終わったことを砲声で知らせると、船から船員たちが大声で叫んだ。
『娘さん、こっちへお出で』。半時間後三十~四十人の女性が泳いできた。
彼女たちを順番に船に乗せ、整列させた。
船員のうち 『行為能力』 のある者はみな自分の相手をさがした。
相手の見つからない女性は船を去らねばならない。
早朝勤務時間の前に、女性たちを再び整列させ、数をかぞえた。
彼女たちはもらった贈物を喜びながら、アヒルのように岸へ泳ぎ去った。
岸では男たちが待っていて、女性たちから 『もうけ』 をとりあげた」
[ ここでいう 「儲け」 とは、さきにものべたように、鉄片やビン、
布切れなどの、言わばがらくたであった。鉄片、とくに鉈やナイフ、
鋏が最も喜ばれた ]。
石川教授はこれを 「売春交易」 とよんでいる。
(略)
五月一七日朝四時、錨を上げて出航しようとしたが、風向きがわるくてどうしても成功せず、ついにもう一度錨を下ろして一夜を明かした。
(略)
こうして二隻の船はヌクヒヴァ島を後にしたのである。
両船はサンドウイッチ(ハワイ)諸島を目ざし、五月二五日午後赤道を通過した 『異聞』 に 「又世界の真中へ出しとて、船中初めの如く酒宴をなして祝儀したり」 とある。
2017年9月7日に~街道の遊女の「富と利権」~と題して加藤秀俊の 文章を紹介しましたコチラです↓
https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12306313014.html
上野不忍池(東京・台東区)にて昨年11月21日撮影