街道の遊女の「富と利権」 | 人差し指のブログ

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本を読んで面白かったところを紹介します

 

 

 

 

 

「メディアの発生      聖と俗をむすぶもの

加藤秀俊 (かとう ひでとし 1930~)

中央公論新社 2009年5月発行・より

 

 

 

『浄瑠璃姫物語』 の 「矢矧の長者」 は 「海道一の遊君」 つまり東海道随一の遊女であった。

 

 

いや遊女というより遊女をあつめた 「女の館」 の主人、あるいは経営者といってよい。

 

 

その遊君と国司とが夫婦になっているのだから、現代ふうにいうなら高級クラブのママと県知事が意気投合したようなものであろうか。

 

その夫婦が子宝を祈願するのである。ありえないことではないが、いささか異常にもみえる。

 

 

だが大炊と義朝の関係もそうだった。国司と遊女という組み合わせはかつての日本でエリート夫婦、ということであったのだ。

 

 

もとより、これらの物語がどこまで真実であったかは問うところではない。

いや、むしろこれはすべて虚構であろう。

 

 

しかし、これらの物語や伝承から推測すると、中世の日本ではほうぼう、とりわけ都市集積のできたところや街道沿いに 「遊女」 をたくさん置いた

「遊女宿」 のごときものがあり、遊女たちのサービスを管理する経営者がいたようである。

 

 

それらは例外なく女性であり、その利潤が利潤を生んで 「長者」 といわれるほどの富を蓄積したのである。

 

 

おそらく矢矧や青墓の 「長者屋敷」 にはおおくの遊女が生活し、そこでは街道を往復する旅人たちが一夜をすごし、あるいは酒宴をたのしみ、休息したのである。

 

 

近代語でいうなら女主人をはじめとする女性たちは 「ホステス」 であり、彼女たちが接待する空間は広義の 「サロン」 といっていいのではないか。

 

いま銀座その他の高級クラブで 「ママ」 と呼ばれる女主人がかならず和服であらわれ、待ち受ける女性たちが 「ホステス」 であるのも、案外こんな中世的世界からの伝統を継承しているのかもしれぬ。

 

 

「ママ」 は 「長者」 であり現代の 「ホステス」 は 「遊女」 の役割の一部をになって財界、政界、もろもろの貴顕を歓待すること、あたかも大炊が義朝を迎えたかのごとくなのではあるまいか。

 

 

「長者」 の経営するサロンにいたホステスたちはもともと遊芸をその本業とする女性たちであった。

 

 

とりわけ平安から鎌倉期にかけて荘園制度が整備されると、それぞれの荘園の支配権をもつ寺社権門が独占的な 「遊女職(しき)」 という 「職」

をあたえるようになった。

 

 

琴、鼓などの器楽演奏、「今様」 などの歌、そして舞踏などの芸事の伝授は師匠と弟子という徒弟制度に発展し、一定の技能をもったものだけが 「遊女」 として認定された。

 

 

そのことによって遊女の人数を制限し、また同業者を排除することができた。

 

そのようにして形成された特権的集団の代表者・指導者になったのが 「長者」 なのである。

 

 

わたしが青墓でみた 「青墓長者屋敷」 の跡などもそういう施設だったのであろうし、乙前をはじめとする 「今様」 の歌手たちもそこで訓練をうけた遊女たちであったにちがいない、とわたしは推測する。

 

 

 

それだけの特権をもちい、またその特権によってもたらされる富が莫大であったから、この 「遊女職」 は利権となり、まさしくそのゆえに、さきほど紹介したように鎌倉幕府に直接、利害訴訟をおこすまでに成長していたのであった。

 

 

この段階になると遊女をめぐる社会集団には 「公的身分」 が保障されていた、といってもよい。

 

 

その結果、建久四(1192)年には 「遊女別当」 が設置され里見義成が遊君別当に任命されて、遊女に関する訴訟を担当したということが 『吾妻鏡』 にみえている。

 

 

また、室町時代になると 「傾城局公事職」 ができた。

 

長者は遊女をかかえ、浄瑠璃姫の物語にみられるように 「国主」 と 「長者」 が同居していることは、こんなふうにかんがえてくるとごく自然だったかのようにもみえる。

 

 

そして今様の名人たちの系譜などをみても、どうやら 「長者」 という 「職」 は女系であって母から娘へと相続されていたようなのである。

 

 

 

 

5月7日 光が丘 四季の香ローズガーデン(東京・練馬)にて撮影