詩篇 その39
「1 主よ、わたしをさばいてください。わたしは誠実に歩み、迷うことなく主に信頼しています。
2 主よ、わたしをためし、わたしを試み、わたしの心と思いとを練りきよめてください。
3 あなたのいつくしみはわたしの目の前にあり、わたしはあなたのまことによって歩みました。
4 わたしは偽る人々と共にすわらず、偽善者と交わらず、
5 悪を行う者のつどいを憎み、悪しき者と共にすわることをしません。
6 主よ、わたしは手を洗って、罪のないことを示し、あなたの祭壇をめぐって、
7 感謝の歌を声高くうたい、あなたのくすしきみわざをことごとくのべ伝えます。
8 主よ、わたしはあなたの住まわれる家と、あなたの栄光のとどまる所とを愛します。
9 どうか、わたしを罪びとと共に、わたしのいのちを、血を流す人々と共に、取り去らないでください。
10 彼らの手には悪い企てがあり、彼らの右の手は、まいないで満ちています。
11 しかしわたしは誠実に歩みます。わたしをあがない、わたしをあわれんでください。
12 わたしの足は平らかな所に立っています。わたしは会衆のなかで主をたたえましょう。」
旧約聖書「詩篇」第26篇1節~12節
感想
>1 主よ、わたしをさばいてください。わたしは誠実に歩み、迷うことなく主に信頼しています。
2 主よ、わたしをためし、わたしを試み、わたしの心と思いとを練りきよめてください。
「26:01【ダビデの詩。】主よ、あなたの裁きを望みます。わたしは完全な道を歩いてきました。主に信頼して、よろめいたことはありません。
26:02主よ、わたしを調べ、試み
はらわたと心を火をもって試してください。」(新共同訳)
最後の審判の事かな? 「完全な道」を歩いて来たと言うのだから、天国へ行く自信があるのだろう。
「21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
22 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。
23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」
「マタイによる福音書」第7章21節~23節
客観的にどういう人かが大事である。大抵の人は偽善者だからね。
「1.わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。
2.わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである。もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。」
「ヤコブの手紙」第3章1節~2節
「新しいタイプの人類は今の人類とは全く違った価値観、考えを持っている。感情は均整が取れ知性は総合的、包括的な考え方をする。偏見で目が曇らされる事はなく、物質的な欲望に耽溺する事もない。
競争よりは協力によって発展していく。排他的ではなく合一を目指す。とにかく色々な面に於いて現在の人類とは逆の考え方をするだろう。」
「ファウスト博士の超人覚醒法」斉藤啓一著より
「真理の御霊」(契約の使者)が第一号で、それから徐々に増えて行くのだろう。
>6 主よ、わたしは手を洗って、罪のないことを示し、あなたの祭壇をめぐって、
7 感謝の歌を声高くうたい、あなたのくすしきみわざをことごとくのべ伝えます。
「26:06主よ、わたしは手を洗って潔白を示し
あなたの祭壇を廻り
26:07感謝の歌声を響かせ
驚くべき御業をことごとく語り伝えます。」(新共同訳)
「手を洗う」という事には、大事な意味があるようである。
「17 主はモーセに言われた、
18 「あなたはまた洗うために洗盤と、その台を青銅で造り、それを会見の幕屋と祭壇との間に置いて、その中に水を入れ、
19 アロンとその子たちは、それで手と足とを洗わなければならない。
20 彼らは会見の幕屋にはいる時、水で洗って、死なないようにしなければならない。また祭壇に近づいて、その務をなし、火祭を主にささげる時にも、そうしなければならない。
21 すなわち、その手、その足を洗って、死なないようにしなければならない。これは彼とその子孫の代々にわたる永久の定めでなければならない」。」
「出エジプト記」第30章17節~21節
しかし、イエスは食事前の手洗いの習慣を否定している。
「1 ときに、パリサイ人と律法学者たちとが、エルサレムからイエスのもとにきて言った、
2 「あなたの弟子たちは、なぜ昔の人々の言伝えを破るのですか。彼らは食事の時に手を洗っていません」。
3 イエスは答えて言われた、「なぜ、あなたがたも自分たちの言伝えによって、神のいましめを破っているのか。
(中略)
16 イエスは言われた、「あなたがたも、まだわからないのか。
17 口にはいってくるものは、みな腹の中にはいり、そして、外に出て行くことを知らないのか。
18 しかし、口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。
19 というのは、悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくるのであって、
20 これらのものが人を汚すのである。しかし、洗わない手で食事することは、人を汚すのではない」。」
「マタイによる福音書」第15章1節~3節,16節~20節
因みに、イエスは「人の言い伝え」だけではなく「神の戒め」も否定している。すなわち、何を食べても良いとしている。
補足:https://ameblo.jp/hitorinomeaki/entry-12299439952.html(旧約聖書で、食べてはいけないもの。)
念のため、イエスの教えが「神の教え」である。(イエスが再臨すると仮定しているのだから当然の事であるが。)
念のため、イエス自身も手を洗っていない事。
「37 イエスが語っておられた時、あるパリサイ人が、自分の家で食事をしていただきたいと申し出たので、はいって食卓につかれた。
38 ところが、食前にまず洗うことをなさらなかったのを見て、そのパリサイ人が不思議に思った。
39 そこで主は彼に言われた、「いったい、あなたがたパリサイ人は、杯や盆の外側をきよめるが、あなたがたの内側は貪欲と邪悪とで満ちている。
40 愚かな者たちよ、外側を造ったかたは、また内側も造られたではないか。
41 ただ、内側にあるものをきよめなさい。そうすれば、いっさいがあなたがたにとって、清いものとなる。」
「ルカによる福音書」第11章37節~41節
因みに、パウロは、
「9 それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、
10 貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。」
「コリント人への第一の手紙」第6章9節~10節
と述べているが、イエスは大酒飲みであり、同性愛については言及していない。つまり、肯定も否定もしていないという事。
「19.また人の子がきて、食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人(つみびと)の仲間だ、と言う。しかし、知恵の正しいことは、その働きが証明する」。」
「マタイによる福音書」第11章19節
やがて、「真理の御霊」(契約の使者)が現われて、答えを出すのかもしれない。
「8:50 わたしは自分の栄光を求めてはいない。それ(注:イエスの栄光)を求めるかたが別にある。そのかたは、またさばくかたである。」
「ヨハネによる福音書」第8章50節
「けれども真理の御霊(みたま)が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。
御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。」
「ヨハネによる福音書」第16章13節~14節
「18 耳しいよ、聞け。目しいよ、目を注いで見よ。
19 だれか、わがしもべのほかに目しいがあるか。だれか、わがつかわす使者のような耳しいがあるか。だれか、わが献身者のような目しいがあるか。だれか、主のしもべのような目しいがあるか。
20 彼は多くの事を見ても認めず、耳を開いても聞かない。
21 主はおのれの義のために、その教を大いなるものとし、かつ光栄あるものとすることを喜ばれた。」
「イザヤ書」第42章18節~21節(口語訳)
「42:18耳の聞こえない人よ、聞け。目の見えない人よ、よく見よ。
42:19わたしの僕ほど目の見えない者があろうか。わたしが遣わす者ほど
耳の聞こえない者があろうか。わたしが信任を与えた者ほど
目の見えない者
主の僕ほど目の見えない者があろうか。
42:20多くのことが目に映っても何も見えず
耳が開いているのに、何も聞こえない。
42:21主は御自分の正しさゆえに
教えを偉大なものとし、輝かすことを喜ばれる。」
「イザヤ書」第42章18節~21節(新共同訳)
見えないんじゃなくて、あえて見ないのだろう。いや、それでは進展しないので、次元の違いを見せつける事だろう。
おまけ
https://www.youtube.com/watch?v=URU55rvLW2U