参考資料818 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

予言との賢い付き合い方
本城 終末予言はもし本気で信じてしまうと、仕事をやめてしまったり、長年かけて貯めた貯金を使い果たして家も捨ててしまったりといった実害も被るので気をつけた方がいいですね。最近でも2011年5月と10月にハロルド・キャンピングという人が聖書をもとに終末論を展開してニュースになりましたが、それを本気にして実害を被った人たちが出ました。終末予言はこの本でも検証されているように、これまでずっと外れ続けています。本気にして行動してしまうと、外れたときに悲惨な結果になることもあるので、ほどほどにするのが賢い付き合い方だと思います。
山本 僕の持論は「終末予言を信じるのは、競馬で勝率ゼロの馬に全財産を賭けるような無謀なギャンブルだ」というものです。今回作った年表を見てもわかるように、予言を信じたせいで大金を失った人や命を落とした人が大勢いる。予言にはそういう危険性があることも忘れないでほしい。
本城 あと日本では地震予言がよく出回りますが、こういった予言を見かけた場合、それに被害規模について、ちゃんと明確になっているか見てほしいですね。
 日時を指定しない予言が結構多いじゃないですか。日本の場合、地震大国だから、地震があるって言っておけばいつか必ず当たります。そういう絞り込めるようなことを言っておかずあいまいにしておくと、後付けでいくらでも当てることができてしまいます。
山津 歴史的な予言については、背景をしっかり押さえることが必須ではないでしょうか。本書で挙がった例だと聖マラキの予言や『先代旧事本紀大成経』などがそうですが、政治的動機の偽造の場合、同じ動機で発した類似文書が他にも複数存在していたりします。そこを見落として一つだけ取り出してしまうと、あたかも時代を超越した文書に見えてしまう。時代的な文脈から隔絶した予言文書など、そう滅多なことでは存在しないという認識は必要だと思います。
 ノストラダムスも聖マラキもある意味でそうですが、欧州の中世・近世の予言を見るうえで、フィオーレのヨアキムの著書やそれを騙った擬ヨアキム文書、さらにそこから派生した中世後期の予言的伝統は無視できません。近年の予言本でしばしば言及されている12世紀の聖女ヒルデガルトなんかはヨアキムよりも少し前の人ですが、彼女よりもさかのぼると『ティブルティナ・シビュラ』(原型は4世紀)や『メトディウスの予言書』(7世紀)など、『ヨハネの黙示録』の亜流でありながら、かつては本家以上に影響力を持った終末予言なども視野に入ってきます。ヒルデガルトにしても、そうした歴史的文脈から切り離して片言隻句をこねくり回したところで、説得的な予言解釈が成立するとは思えません。
 近世の予言思想はまだ手薄だと思いますが、中世についてなら『中世の預言とその影響』(M・リーヴス、八坂書房)や『ヨーロッパ中世の宗教運動』(池上俊一、名古屋大学出版会)などの優れた日本語文献も現れていますから、今後この方面の研究がさらに充実して、社会史や精神史の理解を深める題材として、歴史上の予言がもっと広く認知されてくれることを期待したいところです。
菊池 さっき話に出た自己啓発系というか、ポジティブシンキングなんかは、当たる、当たらないより、そこからいかに多くの教訓を引き出せるかという点が大事なので、時期を指定しない方がいいわけですよね。受け取る人の心の中で真実であればいいという解釈で。
 予言っていうものをどうとらえるかですが、この本の趣旨からいえば、その真偽をしっかりと検証する姿勢は社会的にも重要ですよね。ウソはウソであり、錯覚は錯覚であると明確にしておかないと、これからも騙される人が出てくることになるでしょう。ただ、一方で心理学の関心としては、ここまでデタラメな予言であるのに、まだ廃れることがないとしたら、そこにはやっぱり何か人にとって適当的な意味があるんじゃないかな、と考えるんですね。そこに、一つの前向きなおもしろさがある。
皆神 何でもかんでも信じてしまうという分別がないのは困りますが、より賢く生きるために予言をうまく利用するノウハウといったような、前向きに使えるものが何かあると、みなさんに、もっと喜んでいただけるんでしょうけどね。
「検証 予言はどこまで当たるのか」ASIOS・菊池聡・山津寿丸著より

感想
>『ティブルティナ・シビュラ』(原型は4世紀)や『メトディウスの予言書』(7世紀)など、『ヨハネの黙示録』の亜流でありながら、かつては本家以上に影響力を持った終末予言なども視野に入ってきます。

これは読んでみたいね。因みに、「ヨハネの黙示録」にはイエス・キリスト以外の救世主らしき人物について触れられている。例えば、第3章。
「聖なる者、まことなる者、ダビデのかぎを持つ者、開けばだれにも閉じられることがなく、閉じればだれにも開かれることのない者が、次のように言われる。わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。見よ、サタンの会堂に属する者、すなわち、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくて、偽る者たちに、こうしよう。見よ、彼らがあなたの足もとにきて平伏するようにし、そして、わたしがあなたを愛していることを、彼らに知らせよう。
 忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試練の時に、あなたを防ぎ守ろう。
 わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい。勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外に出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」
7節~13節

多分従来の読み方は、片方が天の父(ヤハウェ)でもう一方がイエス・キリストだと思うが、イエス・キリストは凄い超能力の持ち主で「少ししか力がなかった」とは合わないだろう。(外典ではどんでもない事が書かれている。http://ameblo.jp/hitorinomeaki/entry-11076961378.html

また、第12章には「終わりの時」に生まれてくる、また別の救世主らしき人物について書かれている。
「女は男の子を産んだが、彼は鉄のつえをもってすべての国民を治めるべき者である。この子は、神のみもとに、その御座のところに、引き上げられた。」
第12章5節

「またわたしが見ていると、天が開かれ、見よ、そこに白い馬がいた。それに乗っているかたは、「忠実で真実な者」と呼ばれ、義によってさばき、また、戦うかたである。その目は燃える炎であり、その頭には多くの冠があった。また、彼以外にはだれも知らない名がその身にしるされていた。彼は血染めの衣をまとい、その名は「神の言」と呼ばれた。そして、天の軍勢が、純白で、汚れのない麻布の衣を着て、白い馬に乗り、彼に従った。その口からは、諸国民を打つために、鋭いつるぎが出ていた。彼は、鉄のつえをもって諸国民を治め、また、全能者なる神の激しい怒りの酒ぶねを踏む。その着物にも、そのももにも、「王の王、主の主」という名がしるされていた。」
第19章11節~16節

これも従来の読み方は「イエス・キリスト」だと思うが、「終わりの時」に生まれてくるので、イエス・キリストとは別人である。(何の根拠もないが、上の救世主らしき人物の息子かなと思っている。)
補足:http://ejje.weblio.jp/content/the+King+of+Kings

ところで、イスラム教のコーランでも「終わりの時」にイエス・キリストは再臨し、同時にもう1人別の救世主が現れるらしい。(イーサーがイエス・キリストの事。)
「イスラームの伝承によれば、イーサーはマフディー(正義の導き)による戦の最中に降臨すると考えられている。 マフディーとは、イスラームの終末論ではイスラームの救世主として知られており、反キリスト( al-Masīh ad-Dajjāl 。偽メシア)とその支持者に対抗する者である。 イーサーは、ダマスカスの白い拱廊に、黄色いローブをまとい頭に油を塗って降臨し、マフディーに加わって偽メシアと戦う。 イーサーは、イスラームではムスリムであり、イスラームの教えを遵守する者と思われている。 最終的にイーサーは偽メシアを圧倒し、すべての啓典の民( ahl al-kitāb 、ユダヤ教徒とキリスト教徒をいう)が彼に従ってイスラームの教団ひとつにまとまるという。」
引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC#.E5.86.8D.E8.87.A8

因みに、「死海文書」でも「アロンのメシア」と「イスラエルのメシア」と二人現れるらしい。
http://blogs.yahoo.co.jp/syuushigaku/67826617.html

また、本当かどうかは知らないが、「聖マラキ 悪魔の予言書」ダニエル・レジュ著には「不思議なことに、新約聖書を認めない“異教徒”ユダヤ教徒たちは、逆にこの『ヨハネの黙示録』だけは受け入れているのである。それどころか『最高の聖典』のひとつにしているのだ」とある。

おまけ