窓の外は、真夏の日差しが厳しい。その中に、今日は車が2台、置かれている。

 1台は私の車で、もう1台は学生らしき男性の所有車である。


 ここには、22戸のワンルームがある4階建ての建物が、2棟並んで建っている。

 駐車場は8台分、4台が向き合っている。他にバイクと自転車の置場がある。 戸数に比べて、駐車台数が少ないようだが、隣接して駐車場があるから大丈夫なのであろう。

 一応、アスファルト舗装ではあるが、起伏があって、雨の日には大きな水溜りが出来る。


 机に向かったまま、左に頭を振れば、4台分の駐車場が見える。私の部屋は1階でなので、バルコニーの手摺壁越しに、車の運転席から上が見渡せる。

 その手摺壁のところには、簾が掛かっている。昨年の夏、西日を遮るために吊り下げたのだが、出入する入居者からの視線を妨げることを考えて、そのままにしておいた。


 手前が赤いホンダライフ。

 学生と思しき女性の車である。その女性の顔をはっきりと見たことがない。簾が邪魔をしているのだ。

 この4月に越して来たはずである。その前は、男性サラリーマンの白いセダンがあった。

 朝早くから出かけたり、1日中、止めたままだったりと、彼女の行動は、はっきりしない。

 車1台がやっと通れる狭い路地から、バックで入って来て、駐車位置に止めるのだが、これがなかなか上手である。

 一昨日から、車がない。盆だから、里帰りでもしているのだろう。


 その向こう側が、私の車の置き場所である。手前の車が止め易いように、一杯まで後ろに下げてやる。私の車が、一番長いからだ。

 私はバックの感覚が掴めない。だから、区画線の上に、止まる位置を示す目印の金具を打ち付けてある。それを見ながらバックするのだ。


 そして、次の場所には、また、赤い車が止まる。ボックス型の車だが、車名は知らない。

 25、6歳のほっそりした女性の車である。彼女は、車を必要とする仕事に就いているようだ。朝は大体、同じ時間に、制服らしき黒のスーツ姿で出掛ける。日中でも出入りしているのが、少し不思議だが、勤め先が近いのだろう。

 ここでのキャリアは、彼女の方が長い。顔を会わせて、挨拶を交わしたことがあるが、街中で出会ったら、彼女とは分からないと思う。女性の顔をまじまじと見ることが苦手だから、一昨日の朝、出会ったのにも拘らず、ぼんやりとも思い出せない。私服で出掛けて行ったから、彼女も実家で盆休みを過ごしているに違いない。

 メガネを掛けた少しずんぐりむっくりの男性と一緒のところを見掛けたことがある。彼が恋人かも知れない。


 一番向こう側の路地に近いところは、赤いスポーツカーが止まる場所である。

 持ち主は、男性で、恐らく学生である。ウィークデイはほとんど動かない。しかし、土曜日には、必ずと言って良いほど、ゴルフのハーフバッグを担いで出掛けている。

 彼も、私が来る前から、ここの住人である。彼女らしき女性を見たことがない。


 対面の4台は、見難いし、興味もない。

 今のところ、こちらの3台の車とその所有者の観察で手一杯である。

 寝坊してしまい、陽も高くなった8時半、墓参りに出発した。


 当地特有の盆灯篭とお供えの花は、昨日の内に準備しておいた。3箇所の墓に参るので、3本の灯篭と4束の花である。いつものことだが、花が少なくて、途中で買い足すことを覚悟した。

 数珠はもちろん、ロウソクに線香とマッチ、それにペットボトル3本に水も用意する。

 今年は、別に花立を持って行くことにした。私の家の墓の花立が小さくて、気になっていたのだ。


 車を、北へ20km余り走らせると、すぐ下の弟の墓に着く。

 8年前、弟は45歳を前に亡くなった。バイクでの自損事故で、脊髄に傷を負った。頚髄損傷である。下半身と手先の自由を失い、3年程リハビリに懸命であったが、効果が望めぬことを悟り、自殺した。彼の嫁さんがはっきり言ってくれた訳ではないが、恐らくそうであったろうと思っている。

 墓は、大きな霊園の中にある。墓には、石で作られた30cm余りの車が置いてあり、それが目印になっている。車関係の仕事をしていたので、嫁さんが置いたのだ。墓も嫁さんが建てた。

 私の参る前に、既に嫁さんと娘が来ていた。昨日のことに違いない。花が、まだ、きれいだった。


 近くの義父と弟の家には寄らずに、花を2束買って、北西方向に川沿いの道路を遡る。

 途中で左に折れて橋を渡り、今度は支流沿いに西へ行く。都合25km走って、目的地に着いた。


 私の家の墓は、山寄せの狭い道の側にある。少し離れた広まった場所に車を止め、灯篭や花等を持って墓のところへ行く。 墓所はきれいだった。野草もない。

 この墓に納骨された最も新しい仏は、12年前の母である。

 まず、灯篭を立てる。ついで、墓の前にスコップで2つの穴を掘り、花立を埋めて、花を供えた。

 ロウソク立てのロウソクに火を付け、線香の束にも火を移す。

 それから、数珠を手にし、ひとしきり頭を垂れた。不義理を詫びるばかりだ。

 墓は建てられて相当の年月を経ている。風化と苔で字が読み辛い。大正14年の文字が辛うじて読める。建てられた年だと聞いている。他には姓も2箇所読めるが、正確に読むには苔が邪魔である。

 一族を語る人は、義父をおいて他にない。義父とは、今でこそ、姓は違え、同じ一族であったそうである。墓の碑文が認められる内に、是非とも解読したいと思う。


 車に戻り、そこからの歩いて30m先の、6、7年前に義父が建てた墓に行く。同じ一族だから、私の家の墓と150mしか離れていないのだ。

 誰が参ったのか、灯篭が1本だけ立っていた。

 その隣に灯篭を立て、花を供え、線香を上げてから墓前に額ずく。母と弟は、この墓にも入っている。


 これで墓参りは終わった。帰りは山道を走ろうと考えていたが、長雨のせいだろう、通行止めになっていたので、同じ道を引き返した。

 途中で近道をしたが、往復85kmを、丁度3時間半掛かった。


 命日には墓参りをしたいといつも思うのだが、お盆の一度切になってしまう。

 ご先祖様に、お許しを乞うしかない。

 昨日、とある派遣会社に出向いた。


 一昨日、登録はしているが、何時だったか、思い出すことも出来ないほど久し振りに、その派遣会社から電話が入った。担当者も、初めて聞く名前だった。

 「どうしていますか」と聞く。「今、何処かに勤めていますか」とおずおずと要領を得ない。

 「いや、相変わらずですよ。何か、良い話でもありますか?」とこちらから聞いてみる。

 すると、先方は、俄然元気になってしゃべり始めた。

 「某建設会社が、マンションや工場、病院の設計が出来る人を探しています。よろしければ、あなたを推薦したいのですが」ということだった。

 断る理由はない。以前、同じような話があり、駄目になったことはあるが、仕事が出来る機会は逃してはならない。翌日に、その派遣会社を訪ねることに決めた。


 出掛ける段になって、一応、業務歴でも持参しようかと思い、探したのだが、直には見つからない。得てして、いつもこうである。わざわざ、プリントアウトしなければならない。約束の時間に伺うには、少し焦りを覚える羽目になった。

 正午にはまだ時間があるのに、日差しはきつい。日中に外に出ることが少ないから、余計厳しい。


 目的地近くの駅前で、道路に車が多い。右折で、信号待ちが2回、余分掛かった。

 駐車場を探すのにも手間取った。この派遣会社、以前の場所から移転したのだ。


 入居のビルは、新しくて大きかった。派遣会社も、景気上昇に伴って、業績が上がったに違いない。

 1階のエレベータホールで1人の若い人に出会った。最近は、大抵の人が私より若い。

 彼が声を掛けてきた。時間と私の風貌から判断して、先方には、私の素性が分かっても不思議ではない。

 一緒に部屋に入った。

 その人と、私と同年輩に近くて建築に詳しいと思われる人の2人を前にして、面接のようなことになった。彼らは、私を某建設会社に紹介しなければならない。そのための情報を得ようと、私にいろいろと聞いてくる。

 最近の私の仕事を知りたいらしいのだが、そんなにある訳がない。あれば、ここ来る必要がない。

 工場の設計経験はあるか、改修工事に携わったことはあるか、施工図を書いたことはあるか、とも聞かれた。大体、こういう話になる。マンションの設計が、いつの間にか、いずれも私が苦手とする仕事に取って変わる。

 「そんなことは何とかなります。大丈夫ですよ」と応えるしかない。実際、何とかなるものなのだ。


 某建設会社に話をして、後日、私に連絡が入るということで、部屋を後にした。

 出入口で女性の事務員と入れ違った。この会社も、事務員を雇ったのだ。


 まあ、期待しないで待つことにする。

 某建設会社とは面接もしなければならないだろう。

 現状に変化があるかどうかは、それからである。

 住宅には、その場の用途に合わせて、様々な水栓金具が設置されている。


 台所の流し台には、便利さに配慮して、“シングルレバー混合栓”が一般的に付けられている。

 レバーを上下させて、温水を流したり止めたり、また温水の流量を調節する。

 レバーを左右に振れば、温水の温度が調節出来る。


 “2ハンドル混合栓”の場合は、水温の調節には2つの水栓を操作しなければならい。流量と水温の調節を同時に行おうとすれば、水栓に何度も触る必要がある。“シングルレバー混合栓”に比べると、いささか面倒である。


 一般的であるということで、“シングルレバー混合栓”に話を戻す。

 吐水と止水及び流量の調節には、レバーを上下させる訳であるが、それには2つの操作方法がある。1つの混合栓に2つの操作方法がある、ということではなくて、混合栓によって、操作方法が違うということである。


 止水状態で、レバーが上にあるか、下にあるか、の違いがある。

 止水状態でレバーが上にあれば、下に動かして行くことによって、流れ始めて、徐々に流れ出す量が増えて行く。一番下まで来ると、かなりの流量になる。飛び散るようでは困るから、適当な流量に調整する必要がある。その場合には、流し台の下にある止水栓を回して調整する。


 止水状態でレバーが下にある場合は、操作は全く反対になる。それだけのことである。


 どちらが良いのであろうか。

 頭で考えると、「水は下に流れ落ちる。その状況を作り出すには、同じく上から下に動かす方が理に適っている」ということで、止水状態でレバーが上にある方が良いとなる。

 では、何故、レバーを下から上に動かす混合栓があるのだろうか。


 私は、ある経験をした。

 外出先から帰って見ると、水栓の蛇口から相当な水が、勢い良く流れ出していた。出掛ける前には、止水状態であったにも拘らず、である。

 では、何故? 

 答えは簡単だった。壁のフックに吊り下げてあった“まな板”が、レバーの上に落ちて、レバーを押し下げたのである。フックが、まな板の重さに絶えられなかったのだ。

 余りのことに、ただ、苦笑いするしかなかった。「万が一」とは言うが、現実に起こり得るのである。

 しかし、どの位の水が無駄になったのだろうか。そして、水道代は? 

 水がシンクから溢れ出ていないだけでも幸いであった。シンクに食器でもあったら!!


 現在では、水栓にもいろいろな機能が考えられている。

 センサー付き、足で操作出来るもの、一定の水温以上にはならないもの等々、高齢者に配慮した製品が多い。操作し易い水栓金具を選んで料理を楽しんで頂きたいと思う。


 なお、シングルレバー混合栓、2ハンドル混合栓はあるメーカーの呼称らしいが、ニュアンスは分かって頂けると思う。


        《フリーセル:セルレスルールのフリーセルナンバー》

           195  2611  6455  11105  16559  18951

           21590  25495  27751  31889

 現在までの、住まいの流転状況を思い出してみた。住民票は、一応無視する。


木造平屋建ての小さな一軒家

 私の生家。最初は両親と祖父母が同居。後は、事情があって、義理の父に変わり、

 弟2人が増えた。最後は祖父母に育てられて、小学校2年位まで居住。


木造2階建ての一軒家

 接骨院を開業した叔父(母の弟)に世話になる。祖父母同居。叔父に嫁が来る。

 小学校4年になるまで居住。


元の一軒家

 小学校4年から、帰って来た義父と母、弟3人で暮らす。妹が1歳を前に亡くなる。

 大学を留年して半年までの13年半の住居。青春を過ごしたにしては随分な家だった。


市内の汚い木造の賃貸長屋の1室

 バイト先の新聞販売店が借りてくれた部屋。トイレが汚くて、バイクで大学まで行った。

 しかし、卒業論文を書いた忘れ難い部屋でもある。僅か数ヶ月の住まいであった。


新聞販売店の木造2階建て住宅の1室

 4帖半の明るい部屋。前の部屋と比べると雲泥の差だ。バイト生が5、6人いた。

 日経新聞だから朝刊だけ配達。私が、皆の朝食を作った。10ヶ月位住んだかと思う。


木造2階建ての長屋の2階の1戸

 高校と大学を、一緒に学び、遊んだ友人の親が家主だった。

 2DKと広かった。自炊したが、ラーメンライスが多かった。一番痩せていた頃だ。

 朝は新聞配達、日中は設計事務所、夜は家庭教師と忙しかった時もあった。

 ここに住んでいる間に、大学を卒業したし、家内とも出来た。1年程居住。


鉄筋コンクリート造4階建てのアパートの4階の1戸

 結婚して住んだ。上の子が生まれると同時に新幹線が開通した。窓から良く見えた。

 2人目も生まれる。上の子の幼稚園入園を期して引っ越すことにする。4年半の居住。


郊外の木造2階建ての一軒家

 大部分を義母に頼って中古住宅を購入。市内中心部から北へ約8kmのところ。。

 5年間をバス通勤。3番目の子が誕生。免許を取ってからは車で通勤した。

 勤務先変更と自営、子供の成長、会社設立と破綻、等々と波乱万丈の地。

 何と言っても、22年間半を過ごしたもっとも思い出と“思い”の残る住まいであった。


市内事務所

 言うも憚られる事情があって、5ヶ月間を寝起きした。


11階建てマンションの9階の1戸

 事情があって、新たに一家を構えた初めてのマンション。1年で引っ越した。


3階建てマンションの3階の1戸

 事情があって、1年半居住して、何もかも終わった。


鉄骨造3階建てアパートの2階の1戸の1室

 知人の事務所の1室に間借り。半年居住。


4階建てワンルームマンションの1階の1室

 1階で、住人の出入りが気にはなるが、逆にいろいろと観察出来て面白いこともある。

 早、1年と8ヶ月が過ぎた。


 書き出してみると、驚きである。12箇所、延べ13箇所で寝起きしたことになる。

 終の棲家は何処になるのだろうか。楽しみである。あくまでも楽観主義者でありたい。

 40代半ばにして、メガネが必要になった。それも老眼用のメガネである。


 緑の山々に囲まれたすり鉢状の谷間の底の、僅かながらの田畑に抱かれて育った私には、“目”だけは自慢出来るものであった。


 両目の視力は、いつも1.5であった。1.5で止めていたと言っても良い。

 視力検査の時、0.8位から「い」「つ」・・・と読まされたり、「右」「下」・・・と言わされたりする訳だが、そういう場合に、1.5まで素早く言って、次の2.0のところで、これまた素早く、「分かりません」と言う。読めたとしても、分かったとしても、「分かりません」と言うのである。

 これがたまらなく快感だった。


 今思うと、薄暗い40ワットの裸電球の下で、生活し、勉強して来たのに、不思議である。自然の力は偉大なり、である。


 私が初めて借りた事務所は、宝石店が越していった後の空き部屋だった。

 内装と照明は、宝石店に似つかわしく全体的にゴージャスだったが、暗かった。

 所有していたその店の主人からは、どのように改装しても構わないと言われてはいた。しかし、先立つものがない。仕方なく、そのままで使った。


 私の仕事は設計図を書くことである。1日中、椅子に座って、線を引き、字を書く。


 3、4年して、線が引き辛く、字も読み辛く、また書き辛くなった。老眼になってしまったのだ。

 他のことなら、少々不自由でも我慢出来るだろうが、私は図面を書かなければならないのである。


 メガネ屋に行き、遠近両用のメガネを買った。メガネを使い出すと目の衰えが早まるとも聞いたが、そんなことで躊躇は出来なかった。似合う、似合わないも関係なかった。


 最初は少なからず戸惑ったが、こうして、私とメガネの付合いが始まった。

 1人で仕事を始めて2年近くは、以前勤務していた設計事務所のお世話になっていた。その事務所が借りていた倉庫兼事務所のような部屋で仕事をしていた。下請け仕事と倉庫の番人をしていた訳である。

 部屋は鉄道本線のすぐ側にあり、上下する電車の音が、耳に心地良かった。それには理由があった。

 ここでは、東京都庁の仕事をすることが目的だった。大手事務所の孫請けである。

 週1回のペースで、仕事の打合せが都庁であった。都庁が、まだ丸の内にあった頃である。その都庁では、山の手線等の電車の音を良く耳にした。それと重なったのである。

 だが、その仕事が一段落すると共に、その部屋を出なければならなくなった。


 新たに探した部屋は、築15年、11階建てのワンルームマンションの1室だった。当初はビジネスホテルとして建てられたのだが、オイルショックに見舞われて、分譲マンションに改修されていた。

 部屋の所有者は、宝石店だった。新しい店を駅前に出したために、空き部屋になったのを、私が借りることになったのである。

 7階にあり、2室の広さの角部屋で40㎡位あった。部屋と駐車場とで9万円余りの出費となった。


 店のまま、改装しないで事務所として使用した。

 床は赤い絨毯、壁と天井は濃い目の毛羽立ったクロスだった。照明はダウンライトである。元が宝石店だから、全体的に落ち着いてはいたが、事務所としては少し暗かった。

 壁の陳列ケースは、ガラス戸を外して、そのまま本棚として使った。これは重宝した。

 流し台やテレビ等も備えてあった。まさしく、ホテルにマンションを継ぎ足したような作りだった。


 別に不満はなかったが、図面を書くには、やはり暗かった。老眼になるのが早まってしまった。


 3年程、1人で使った後、知人と共同で設立した会社の事務所にした。

 今度は徹底的に改装した。知合いの内装屋に頼んで、50万円掛かったが、全て替えた。

 当初、作業も事務も、この1室で行うように考えていたが、間仕切りや機器、家具を置くと狭い。そこで、新たに11階に部屋を借りて、作業スペースとした。

 7階の部屋は、事務と応接と打合せのスペースに使用したが、結果的に、2つに分けたのは失敗であった。


 7年後に、会社が破綻した。「2つの部屋」がその理由の全てではないが、遠因にはなった。


 都合、10年余りを共にした事務所であった。それだけに懐かしい。

 囲碁を始めたのは、大学に入ってからだった。

 授業の合間に暇を持て余していた時に、友人から教わった。大学会館に置いてある碁盤と碁石を借りて、友人と碁を打った。全くの初心者に良く付合ってくれたものだと思う。


 一応、囲碁の本を買って、私なりの勉強はした。ルールはもちろんだが、定石というものがあることも知った。

 一時はかなり力を入れていた。なにしろ、他にすることがない。新聞を読んでいると、漢字は黒石に、ひらがなは白石に見える程だった。

 しかし、根が勝負事に向かない性質だと思う。定石が覚えられない。というか、実際に碁を打つ時には、定石なんか、そっちのけになってしまう。

 碁では大切だといわれる大局感も持ち合わせていないと言って良い。相手の打つ石に対して、付合いが良過ぎる。

 そして、下手な碁に付合ってくれる相手も、そうそういる訳でもない。


 そうこうしていると、何処からともなく、麻雀の音が聞こえて来て、誰彼ともなく、麻雀卓を囲むようになる。誰も暇であるから、相手に不自由しないし、碁よりは余程面白い。


 社会人になってからは、碁を打つことはほとんどなくなった。そうは言っても、全く縁を切った訳ではない。新聞に掲載されるプロの碁は良く見るし、NHKの日曜日のテレビ対局やBSの三大棋戦の中継放送も、興味を持って見ている。時折、自分の予想した手が当たると、嬉しくなる。


 ネットでは、日本棋院のサイトから様々な情報を得ている。対局のネット中継もある。

 ネット中継に関して言うと、同じ新聞社の主催であっても、将棋は有料の場合があるのに、囲碁は無料である。この違いはどういうことなのか、といつも疑問に思う。


 囲碁と将棋を比較して、とにかく不思議に思うことがある。

 囲碁界には、親子や兄弟姉妹でプロ棋士であるという例が良く見掛けられる。詳しくない私でも、各々5、6組位は頭に浮かぶ。

 将棋界では、現役の親子のプロ棋士はいないのではないかと思う。兄弟は1組、兄妹も1組、姉妹は2組を知っているだけである。

 この違いはどこから来るのであろうか。


 もっと勉強して、相手を探して楽しみたいと思うのだが、今はネットだけが頼りである。

 将棋には、小学生の頃から親しんだ。

 近所のおじさんに遊びとして教えて貰ったのは、低学年だったが、将棋を差したと言うのは高学年になってからである。


 その頃に、将棋を差した主な相手は2人。

 まず、若い散髪屋のお兄さん。旧村の中心地とは言っても、そんなに家も人も多くはないところに、2軒目として開業間もない店だった。

 日中は当然、お客はいないから暇である。その暇な時間に、将棋の相手をした。勝敗がどうであったかは覚えていないが、「小さい割には強い」と言ってくれていた。

 一時期、とにかく、入り浸っていた。夏休みには、朝早くから店に行っていた。農家故、忙しいことは分かっていても行く。将棋を指していると、お袋が呼びに来た。帰って手伝えと言うのである。

 床屋に将棋は付物のようなものだが、確かに、私には憩いの場だった。


 2人目は、義理の父親だった。複雑な事情があって、私は母の連れ子ということで、義理の父子関係にあった。

 父は勤め人ではない。少ない田畑と山が仕事場であった。

 山仕事から帰って来る父を、将棋板に駒を並べて、待ち構えていた。ある時期、毎日のように指した。私の方が少し分が良かった。それで夢中になっていた。今思うと、父が手加減してくれていたのかも知れない。父の実の子である弟たちが3人もいたが、彼らはまだ、小さいせいもあって将棋は指さなかった。傍目にはおかしな光景である。


 中学校に上がったある時、教室内で同級生と将棋を指していて、担任に咎められた。勉強の妨げになるから将棋をしてはいけないと言うのだ。厚紙で作った駒と将棋板を取り上げられてしまった。


 大学では、囲碁に凝ったので、将棋とは余り縁がなかった。

 ただ、ゼミの教官が自称2段というだけあって、私が負けてばかりだったということが懐かしい。


 その後は、新聞の将棋欄に目を通す位のことだった。

 将棋の雑誌も買ったが、そう昔のことでもない。それもざっと読むという程度のことだった。


 最近は、パソコンが私と将棋を繋いでくれる。

 将棋連盟のサイト、各新聞社等の棋戦のネット中継、棋士のブログを楽しんでいる。

 ここのところ、名人戦の掲載紙問題が取り沙汰されている。ぬるま湯体質の狭い棋士社会に一石を投じたということでは意義はあったと思うが、少し非常識だとの謗りは免れないだろう。


 将棋を本格的に勉強した訳でもない。将棋を指す環境にもない。

 ネットが、より親しむ状況を作り出してくれた。これからも身近な将棋であって欲しい。

 車の免許を取ったのは遅かった。34歳になっていた。


 免許を取ろうと意を決して、自動車教習所に行ったのには、1つの目的があった。

 3番目の子の誕生に合わせたのだ。退院の時に、車に乗せて帰ってやりたいと思ったからである。

 

 夏の8月が誕生予定だったので、6月から教習所へ通い始めた。

 夜間ではなく、午前中に通うことにした。仕事の時間は、夜間の残業で補う方が長く取れる。


 仮免の試験までは順調だったが、仮免で躓いた。

 この教習所のシステムでは、初期の所定講習期間中は、時間と教官を固定するやり方だった。年配の教官には問題なかったが、教官に固定されている教習車に問題があった。古いタイプで、お払い箱になる寸前の車だったのだ。

 仮免試験の時、教官から、「試験車両は、新車だから気を付けるように」と言われた。どういうことか分からなかったが、坂道発進で痛感させられた。下がってしまったのだ。クラッチの感覚が全く違った。免許は、まだ、マニュアル車だけの頃である。


 最初の仮免は失敗した。そうこうしている間に、所定講習期間が終わった。再度の仮免試験のためには、一定の講習を受けなければならない。しかも、自分で申し込んで時間を確保する必要がある。

 学生の夏休み期間に重なり、受講時間が自分の思い通りに取れなくなった。これでは仕事に支障が出る。目的を達せないまま、中途で挫折した。


 秋風も冷たく感じられる時期になってから、再び教習所に通った。随分後戻りしての再スタートであった。教官も車も、受講の都度、代わるという状況には苦労した。

 12月初旬に、やっと免許を手にすることが出来た。半年近くを要したことになる。

 免許を、年とってから取ろうとすると、年の数だけ、万円札が必要だと言われていた。そんなことはないと思っていたが、結果的にはそうなってしまった。


 直に値段も大きさも、初心者には手頃な中古車を買った。

 そして、休日の度に、家族連れで至る所をドライブした。

 その車には3年半余り、お世話になったが、最後は廃車の憂き目に会わせてしまった。楽しい思いをさせて貰ったのに、かわいそうなことをした。