私の母の弟、すなわち叔父は接骨院を営んでいた。
叔父は既になく、現在は従弟が後を継いでいる。
昨春、その従弟の元を訪ねた。従弟の母、叔父の奥さん、すなわち叔母に会いたいがためだった。
叔父が接骨院を開くに当たり、私には祖父になる彼の父親は、彼に嫁さんが必要だと考えた。そこで祖父は私を連れて、隣県の山奥へ嫁探しに出掛けることになった。
その頃、私は小学2年生の8歳。何の当てがあって、あの遠い道のりを列車やバスを乗り継いで行ったのか、60年間分からなかった。しかし、結果的に嫁探しは成功している。
今になって、その疑問が少しばかり氷解した。『縁者からの助言があって、何がしかの目星を付けて訪ねたのだ』、と分かった。
一昨年から我が家のルーツを明らかにしたいと、弟と手分けして3ケ所の区役所に出向き、先祖の戸籍謄本をいくつか入手した。その中に、それらしき記載を見つけたからである。
私が初めて会った折の叔母は高校を卒業したくらい、私と10歳違いだったろうか。
叔母は眩く輝いていて、明るく快活な女性だった。
私の思春期を早め、私の胸をときめかした存在だった。
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1年間、省営(国鉄)バスで通った幼稚園は、お寺さんが運営していた。境内が園庭だったのである。
現在は市立の幼稚園として存続している。
幼稚園での思い出は、ほとんどない。
他の園児と遊んだことも、教室で教えて貰ったであろうことも、具体的な情景を思い描くことが出来ない。
男の子には、本堂の下の土間が遊び場だったようだ。他では、女の先生と向かい合わせで座り込み、何かをした様子が薄ぼんやりと脳裏に巣くっている程度だ。
卒園時のものと思われる集合写真が、長く残っていた。園児と先生だけが写った写真だから、間違っているようにも思われるが。
本堂の前の階段に多くの園児が、行儀良く並んで座った状態を撮ったものだった。
その写真、中段より上位の位置で、私1人が、両手に顎を乗せて写っていた。写真屋さんが注意してくれなかったようだ。変わり者がいて、返って良かったのだろうか。
私用のアルバムにちゃんと貼ってあったから、今も、実家にあるかも知れない。
私が幼稚園に通っていたことを証明する物は、その1枚の写真だけである。
小学校に上がる前、私は幼稚園に通った。
それも、4㎞も山間に入ったところの幼稚園で、私は乗合バスで通園した。
昭和の大合併により、昭和30年3月末に5ヶ村が一緒になって町制が布かれた。翌4月から、隣村にあった幼稚園の園児になった訳である。
近所にも同い年の子がいたが、その幼稚園に通ったのは私1人だった。どうして、そういうことになったのかについては、分からないままだ。
鮮明な記憶がある。
入園式には、母が連れて行ってくれたのだ。
これも理由が不明なのだが、その4㎞の道を一緒に歩いて帰った。
入園式で貰った学習道具が嬉しくて、帰りの道すがら、取り出して見ていたらしい。
あるところで、クレヨンを落とした。今以て、その場所を特定出来るから不思議だ。
クレヨンを箱ごと落としたのか、何本かを落としたのかは定かではないが、1本のクレヨンが折れてしまった。
それがショックだった。大変情けないという思いをしたことを覚えている。
入園式だということで、母は、わざわざ遠方から来てくれたのだ。
この5年後から、母と一緒に暮らすことになるのだが、その5年間に母と会ったという明確な記憶がない。
母は百姓仕事の手伝いに、度々、祖父母のところへ来ていたと言っていたから、私が覚えていないだけなのだろうと思う。
早乙女姿の母がしゃがみ、幼い私を抱くような恰好で撮った写真があったが、それも何時のことか分からない。私に覚えがないのだ。
この入園式のクレヨン事件は、それだけ強烈な思いを残したということである。
もう少し、もう何年か後にして欲しかったのに、節目の誕生日がやって来てしまった。
還暦を迎えたのである。避けることなど、出来なかった。
60年掛かって、今、手元には何もない。実感出来るものが何もないのだ。ただ、虚しい時が過ぎただけである。
己自身が蒔いた種の結果であるから、何処にも言って行くところはない。黙って受け入れるしかない。
しかも、よりによって、尿管結石が発覚した。結石を壊すには入院の必要があると言うのだ。思わぬ出費を強いらされそうである。
これこそ、不可抗力以外の何ものでもないのだが、何という頭の痛い問題を抱えてしまったことか。我が身の不運を嘆くばかりである。
先日から、このブログを再開した。しばらくの間、越し方を見詰め直してみたいと思ったからだ。
これを読んで貰いたい者が存在するが、果たして意のあるところが通じるだろうか。とにかく、書くしかない。
スーパーに行って、自分の誕生日に気付き、寿司と惣菜を買った。せめてもの祝いの積りであった。美味しかった。
私が5歳半の折、町を通り抜ける国道に“幕ノ内トンネル有料道路”が開通した。曲がりくねった峠道を迂回するための道路である。
1954年12月1日、全国で4番目の有料道路であった。その1ヶ月前には、日光の“いろは坂”が開通している。
開通式には私も加わっていた。トラックの荷台に乗って、道路を颯爽と走った記憶が鮮明だ。天気の良い日だった。トンネルを通った記憶がないのが不思議ではあるが・・・
前年の8月、お盆の帰省客を乗せたバスが峠道から転落した。皮肉にも、工事中の道路に落ちて、20数人が亡くなった。近くの救護所で寝かされている負傷者の様子が薄ぼんやりと思い出される。上空を取材のヘリコプターが回っていたのも、大惨事を印象付けた。
4歳になったばかりではあったが、幼い子にとっても強烈な出来事だったのだろう。
その後も、その峠道では、度々、車が転落した。お金を渋ったが故の事故だったのだろうが、よく見に行ったものだ。
開通と言えば、一度、橋の開通式に行ったことが思い出される。家から2㎞余りの太田川に架けられた『壬辰橋』である。干支の“壬辰”から命名されたとすれば、1952年のことになる。祖父に連れられて行った記憶がある。3歳だった私には、行ったということしか、思い出すことが出来ない。
この世に生を得て、記憶している最初の出来事とは、一体、何だったろうか?
『暗い部屋で、誰かに抱かれて泣いている』、これが私の最初の記憶である。小さい時から、この情景を思い出しつつ大きくなった。
10歳位の頃から、段々とその経緯が分かって来た。誰に尋ねた訳でもない。私が勝手に想像したことではあるが・・・
ある夜、3歳位の私を祖父母に預けて、母が家を出て行った。私にとっては義父になる人を追って、出て行かざるを得なかったのだ。当然、事情も分からず、分別もない私は、ただ母との別れが悲しくて泣きじゃくったのではなかったか、祖母に抱かれて・・・
私の実父は、俗に“5反百姓”と呼ばれるような小さな農家に、婿としてやって来た。家には、祖父母、母、母の弟がいた。
祖父母は、弟に百姓をやらせる積りはなかったようである。後に整骨医となった。今で言う鍼灸マッサージ師である。歳を取ったりで体の弱かった祖父は、百姓仕事をさせるために、母に婿を取ったのである。
婿は取ったが、実の息子は可愛い。財産は息子に継がせたい。修業や開業の資金が必要なのだ。
私の父はその板挟みになったのではないか? 当初の話とどうも違う。結局、父は母と別れ、私を置いて出て行った。
その後、最初の失敗にも懲りず、祖父母は、またしても婿を入れた。義父が来たのだ。
弟になる子も生まれたが、諸々の事情は変わるべくもなかった。それに、私と弟に対する祖父母の差別的扱いが目に余ったらしい。後年、義父から聞いた話である。
義父も出て行くことにした。家に留まっていた母も、2度目は辛抱しきれず、後を追うことに心を決めた。義父の手前、私を置いて出なければならなかったのか、祖父母が手放さなかったのか、どちらの理由だったのだろうか?
これが、私の最初の記憶に残る出来事である。
多くの部分が想像の域を出ない。しかし、今となっては、確かめる術は全くない。
市民病院では、4時間を掛けて検査をして貰った。
尿・血液検査、腎臓のエコー検査、レントゲン撮影、造影剤を注入してのCTスキャン。
検査の結果、左の尿管に6×12㎜程度の結石が発見された。写真では、腎臓から膀胱に至る尿管が、途中までしか明確に表れていない。そこに結石が詰まっていると言うのだ。医者がマウスで計測して大きさを割り出してくれた。
この結石が細菌の発生源なのだろう。
体が弱れば膀胱炎に、悪くすると腎盂腎炎になるのだと理解した。
おまけに、右側の腎臓内にも小さな結石が見付かった。このまま大きくなって、また尿管にまで降りてくるのかと思うと憂鬱である。
市民病院には、この結石を機械的に取り除く装置がないということだった。
紹介状を書いて貰った医者が、もう1通の紹介状を書いてくれた。結石を処置する病院へのものだ。
1週間後、その病院を訪ねて行かねばならないが、少し気が引ける。ネットで調べたところによると、3割負担の保険診療でも8万円程度の出費になるらしい。
とにかく、紹介状を持参して行くことにはしよう。
時の流れに、体は従順である。無理強いには、直に反動が起こるのだ。
ゴールデンウィークの折、2週間に亘り、野外で長時間の立ち仕事に携わった。必要に迫られてやむを得ない選択だった。そういう後ろ向きの気分の持ちようも、結果的に良くなかったようだ。
医者によれば、無理が祟って膀胱炎から腎盂腎炎になったのだそうだ。
月初めのことだった。
腰が重たく感じた。しばらくすると悪寒がして来た。体の震えが止まらない。
1日中、寝ていたが熱が下がらない。風邪かと思い、薬箱にあったリココデを飲んでみたが、変化はない。症状が重くなっては効くわけもないか。
しかし、咳も鼻水も出ないのだから、風邪ではないようだ。
夜になって、薬屋に行く。解熱剤としてはパブロンしか知らない。それにリココデ。風邪なら、これで何とかなるはずなのに・・・
丸1日中、食欲がなくて何も食べていない。その薬屋に果物ゼリーが置いてあったので、2つ買った。
隣のスーパーで氷一袋を買った。
パブロンを飲み、氷を頭に当てても、熱は下がらない。それに、依然として食欲が湧かない。
翌日、いつもの医院を訪ねた。
腎盂腎炎の診断が下った。膀胱炎を通り越したのだ。
尿に細菌がある。白血球の数値が異常に高い。栄養不良の兆候もある。
早速、点滴のためにベッドに横になった。
それから10日余り、毎日、通院した。その都度、点滴である。尿と血液の検査も欠かさず行われた。
尿の検査結果は、ずっと思わしくなかった。診断の3、4日後には市民病院での検査を勧められた。
紹介状を書いて下さった。いよいよ、私は本当の病人になるのだろうか。
昨日は、この酷暑の中を、高校同期生とゴルフに行った。
覚悟を決めてのゴルフとは言え、無事に回れるのかと不安感一杯だった。一応、スポーツ飲料を2リットル用意した。
スタートが7時と早くて、少しは気分的に楽な思いがした。
インから2番目の組になった。少し待って、私がオナーでティショット。音は良かったのだが、朝日に邪魔されて球筋が全く見えないし、誰も見ていない。
セカンド地点まで、とにかく行ってみることにする。ウェアウェイではなく左の山裾にあった。何となく、後のことを暗示しているようだった。
ドライバーはまずまず、アイアンはダフりが多かった。特に悪かったのがパター、左に外してばかりいた。分かっていて直らなかった。無駄な大叩きもあった。
そんな調子だったが、80日振りのゴルフだったことを考慮すれば、まあまあというところ。前々日の打ち放しで、手の皮を擦り剥いていたことも影響したし・・・
後の組が同年輩位の4人の女性陣だった。これが早い。絶えず待たせているという状態だった。
ということは、私たちの組が遅いということになる。確かにショットの前の素振りが多かったり、グリーン上で慎重になる連れもいた。本人の癖だから仕方ないし、“マッチプレー”で賞金が掛かっていることも関係している。ショットが定まらなければ、球が遠くへ散らばってしまうのは、男の特権みたいなものだ。
後半は各ホールが待ち待ちになって、お互い様という状況だった。
私にように、素振りは1回、クラブは何本でも持って歩く、違う番手でもショットする、というように平素から気配りしている者には、結構な重圧である。ゴルフを始めた頃、年上の口喧しい連中に鍛えられた結果ではあるが。
まあ、何とか無事回れて良かった。何しろ、ロッカールームでダウンしていた年配者もいた位の猛暑の中のゴルフだったのだから。
帰ってから疲れがどっと出た。のた打ち回ったと言って良い。
夏場のゴルフは、出来ることなら避けるべきだ。
墓は3箇所である。弟の墓、義父の墓、我が祖先の墓。
それぞれの墓用に盆灯篭を3本と供花を3組、これは前日に買って来たものだ。数珠に蝋燭と線香、それに2リットル入りのペットボトル3本に水を入れて準備は整った。
車で7時前には出発。
まず、一番近い弟の墓へ向かう。18㎞を20分余りで到着した。大きな墓苑の中にある。朝早いせいか、人もまばらだった。
墓の目印は石の車。車の仕事に関係していたので、義妹が置いた物だ。目標物になっていて、いつも探すのに助かっている。
既に義妹たちは参っていた。花が新しいし、卒塔婆が4本、石台に載せてあった。
持参した灯篭1本を建て、花を添える。数珠を手に、無沙汰を詫びた。
墓苑を出て、狭い旧道を実家の方へ、車を走らせる。途中、コンビ二に寄ってデジカメ用の乾電池、飲料とアイスキャンディを買った。
残る墓2箇所は同じところにある。
太田川に沿って遡り、しばらくして左折し橋を渡る。ついで支流沿いをまた遡る。道路工事中のため、2箇所で片側交互通行規制に引っかかった。
30㎞弱で墓地に到着。
先に義父の墓に向かう。母の死後、建替えた墓なので、まだ新しい。義父たちはまだ来ていなかった。
次に200m離れた私の墓に参った。母も分骨の上、納骨されている。特別に百合の花を供えた。
以前は母の従姉妹が参ってくれていたが、その従姉妹も亡くなり、墓守も寂しくなった。
3時間後、90㎞の墓参りドライブも無事で帰って来た。これで、今年の墓参りも終了したことになった。
母の命日に参るとすれば、11月のことになる。
弟の命日は2月だ。また、訪ねてやろうと思う。
