0448、名乗り口上「~の男」に対して「~の女」は極めて少ないという話 | ひたすら楽して日本国民2

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いい世来いよと人の云う
お前のことが好きだった

表題はまあ今更な話だが、

たぶん『マルサの女』以外の知名度は極めて低いし、それさえ既に時代を考えろというもの。

なんとなく思い出せる範囲でも『科捜研の女』しか出てこない。

 

・・・ご存じであればぜひコメントをいただきたい。

これでもそこらの東大卒よりはモノ知ってるはずなんだが、

僕でもたいした数を知らない。

 

まあ、それはどうでもいい。

 

 

 

 

男性ホルモン由来の集中力だの頑固一徹ぶりだの、

あるいは情熱だの集中力だの渇望だのというものは、

体力差もあって、女が何をやっても最後の最後で男に勝つのが困難である根拠となる。

 

これは古今東西不変の真理であり、

サー・フランシス・ドレイクが女である可能性がどれだけあっただろうかという問いに対して、

100%の勢いで否と回答するのが容易であるかのごとく・・・まあいい。

 

結局のところ、

女は弱いがゆえに環境(男ないしチンポおよび種)に適応せざるを得ないから、

順応性が高いなどと評価されているが、実際は逆だ。

 

弱いから、環境を変える能力すら持たないから、順応せざるを得ない。

 

男なら山林原野を開拓して住みやすい土地に変えるべきだと考えるが、

女ならそんなことできないから今ある環境を利用しようと考える。

 

不可能であれば可能とする条件を満たそうとするのが男で、

不可能だと思ったらそれ以上の努力をやめるのが女。

 

農業でいうなら品種改良、工業でいうならブレイクスルー、

サービスでいうならコペルニクス的転回、あるいはデファクトスタンダード。

(de facto standard:公的認証を受けず業界標準となったもの、のこと)

 

99.999%以上の挑戦者たる男の人生は無駄に終わるが、

その膨大な数の失敗のうえに英傑が存在できるのだと、

「僕を含め我々は」知っている。

 

それを科学と呼ぶのか、無謀と呼ぶのかは、後の世の誰かさんが決めることだ。

今を生きる僕らが知ったことではない。

 

だから男の生き方なんて有為か無為かの問題ではなく、

そう生まれたら、そう生きることしかできないし、やらない。

それがペニスであり、勃起であり、あるいはhu「manism」であり。

 

東映版スパイダーマン(スパイダーマ)でも有名だが、

男たるもの「~の男」だの「~の人」だのという周知は名誉なことだと考える。

自分という生き方がそのようなものであると理解された証だからだ。

 

自分が知らない人からでさえ理解されるほどの需要、

あるいは正しさがあったことの証明になるからな。

「あっ~の人だ!」「~の男だw」というのは、清濁でいうなら清側のものになる。

 

所詮男なんか「稼いで養う」か「戦って死ぬ」かの二択しか選べないのだから、

それしかできないはずの命に、

それ以外の存在意義が得られたというなら、望外の喜びだ

 

 

 

 

・・・男だったらそういう意識は、心のどこかにあると思うんだよな。

 

たとえ自分が結婚もできず童貞のままであったとしても、

誰かの嫁さんと子供を守って死ねたのなら、

俺のことは気にするな、お前が今後もっと幸せにしてやれと、強がったまま死ねる。

 

男はそういうもんだ。

どうせ惨めに死ぬなら、一つでも誰かの幸せに貢献したいと、

それが尊くて名誉なことだと、まあ思うだろうよ。

 

 

 

 

 

 

でも、女にそういうものがあるとは思えんのだよな。

 

いっちゃ悪いが女にとって孕んで産むこと以上の悦びって、結局何もないんだよな。

だから野田聖子みたいに、

カネの力で卵子を借りてでも「おまんこ使用実績を解除」したがる。

 

どれだけ若いうちに男から求められて処女を捨てたのか、

どれだけ多くの男からメスとして求愛されたのか、

どれだけ良質なオスの寵愛を受けたのか。

 

全部チンポ関連の実績しかないのだよな、女の人生ってのは。

 

弱いからこそ男や環境に左右され流されるなら、

それらに順応したほうが合理的であり、

自分を染め上げるほどのオス臭さは、すなわち強さと限りなく同義だからな。

 

だから人畜無害で良識的なオタクより、

暴力的で俗悪な暴力男のほうに強く惹かれる

 

それが合理的で正しいかどうかより、それがどれだけ強く自分を必要とするのか

 

他人に自分を委ねることの恐ろしさは、

まあチンコしゃぶってもらうときに理解するもんなんだけど、

女はその振れ幅が、男よりも明らかに大きい。

 

そうならざるを得ないからでもあるし、無理からぬことでもある。

 

理解はできるし想像も共感も許容もできる。

 

でも、自分(おとこ)にはできたとしても、やりたくはない。

 

 

 

 

 

根源的に男と女を分かつものって、やっぱそこなんだろうなと。

 

理解も想像も許容もできても、イヤだと思うのが男。

 

理解も想像も許容もできるなら、それを拒む理由がないのが女。

 

自分では使わない内臓(膣と子宮)を持ってるのは女だけだからな。

そりゃあ「~の女」だなんて名乗れはすまい。

 

女であるという事実は、我が子のためか、我が夫のためでしかありえんのだ。

 

(自分の認めた男)の女だとしか名乗れないのは、まあ一周まわって合理的なのだろう。