0414、心にオタク仏教を | ひたすら楽して日本国民2

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いい世来いよと人の云う
お前のことが好きだった

大事なことなので立場を明確にしておくが、

僕は宗教者ではないが信仰心はある。

この記事で紹介する内容も、所詮は高校の倫理の授業レベルの基礎知識でしかない。

 

 

 

特定の宗教指導者だの聖地だのなんて尊重はするが例外なく中指立ててクソ喰らえであり、

しかし科学という名の新興宗教に毒されている阿呆ほど、

まっとうな学識を持たないことも知っている。

 

神の存在は信じているというより仮定しているし、

そのような何かがいると仮定したほうが人生はあれこれ楽になる。

ただ、神の教えとやらがあるなら今すぐここに連れてこい、それは貴様の寝言だと断じる。

 

かといって占い(笑)で人生の指針を決めるようなキチガイめいたことはしないが、

一定の科学的経験則がエッセンスとして含まれていることまで否定はしない。

 

ようするに何事も匙加減の問題であり、

世間一般様のほぼ全員は、その匙加減がド下手糞なのである。

何せ花粉症すら治せないくせにエビデンスと叫ばれても、鼻で笑うほどの価値もない。

 

まあ科学的確信に基づき自分の花粉症を5歳のときに治した僕の話はそれくらいにして・・・

 

 

 

 

 

仏教ってそういう、テキトーで居心地のいい匙加減を探せ、っていう宗教なのよ。

 

・・・いやまあ、本職坊主に言わせるならそうじゃないって人は大勢いるだろうけどね?

 

ただ仏教の教えにおいて大事なことは、

「正しく生きて適切なものを選べ」「身の程を知れ」「人生諦めが肝心」っていう、

現代を生きる庶民にとっても重要なモンでありまして。

 

なにせブッダと呼ばれる男、いわゆる仏様って、

王族のくせに妻子を捨てて出家して無意味に苦行して、

やっぱり苦行って意味ねーわおっぱいうめえってほざいた、生粋の中二病患者だからな。

 

「妻子持ちの王族が何を悩んだんだよ(困惑)」ってなるけど、

これは現実世界のトップアスリートや大富豪ですら鬱病を患っているように、

悩みというのは立場や状況に応じて多種多様な苦しみをもたらすわけよ。

 

王族として幸せな暮らしをしていても、

疫病や飢饉で亡くなる民を見れば、そりゃあ心の一つくらいは痛むわけだろう?

 

んで当時大流行していた自分探しの苦行をやってみたけど、

苦しみの果てに得られたものは、ただ痛くて苦しいだけだったというオチ。

我慢は無駄だったけど、経験してみないとわからないこともあるよね、と。

 

ある意味で誰よりも人間臭い宗教だと、僕は思っている。

 

だって神とかいう無能の分際で全知全能とかほざくアホがおらんからね。

 

仏様は王族でも人生こじらせちゃうんだよという生き証人、

バカにするくらいでちょうどいい。

 

・・・いや、宗教を侮辱するのではなく、実在したであろう生身の人間を想像しての話さ。

 

そして何よりも、

仏様の生き方がアホ臭いと思えるのは、僕らがそこそこ幸せであるからだ。

 

そうやって無駄に苦しんだ人がいるからこそ、

「無駄な苦しみなんかないほうがいいに決まってんだろバーカ!」

という主張に説得力が生まれる。

 

そんなバカみたいな生き方をしてくれた先輩が、ブッダ。仏教の開祖。

 

 

 

 

日本人も、この「仏教臭い」価値観に染まってる人が多くてね。

 

 

 

 

 

自然災害が起きても、騒いだって仕方ないじゃん?

とりあえず受け入れて立ち上がるしかない。

世の中そんなもんだから諦めて、できることをしよう。

 

この「諦めよう」って価値観が、仏教の「四諦(したい)」って教えそのものだからね。

 

般若心経(有名な念仏)には「苦集滅道」って文字があるけど、

これが四諦の教えを表している。

 

 

 

 

苦諦(くたい)とは、この世は苦しいもんなんだよしゃーねーべ、という話。

 

実は「四苦八苦」という四字熟語がまさにこの「苦諦」の苦しみのことを指している

 

四苦八苦は四つの根源的苦しみ(生きること、老いること、病に倒れること、死ぬこと)、

生・老・病・死は逃れられないんだよという話。

 

八苦とはそこへさらに、

愛する存在と離別しなければならない苦しみ(愛別離苦(あいべつりく))、

憎い存在と遭遇しなければならない苦しみ(怨憎会苦(おんぞうえく))、

欲しいのに得られない苦しみ(求不得苦(ぐふとくく))、

肉体がある限り逃れられない苦しみ(五蘊盛苦(ごうんじょうく))を加えたもの。

 

生きていくうえでの苦しみって、だいたいそんなもんじゃん?

 

世の中そんな苦しみがあるから諦めよう、文句言っても消えはしねーんだからさ、と・・・

 

 

 

 

んで集諦(しゅうたい)ってのは、なんでそんな苦しみが生じるのかを考えた結果。

 

「何かを欲しがるせいで苦しみが集まる」と考えたんだよな。

幸せが欲しい、健康が欲しい、美貌が欲しい、お金が欲しい、

そりゃまあ誰だって欲しいよ。

 

でも欲しいと思ってるからこそ、得られない苦しみを集めてしまう。

「愛着が湧く」なんていうけど、

本来の「愛着」って、この欲しがってしまう人間のあり方を指したものだからな。

 

昨今の勘違いしたバカどもが「断捨離」なんて価値観にこだわっているけど、

断捨離にこだわっているから苦しみが生じるんだぞと、

仏どころか僕にさえ突っ込まれるんだから、まあバカといってよかろうよ・・・

 

とはいえ滅諦(めったい)ってのは結論自体は同じで、

欲する心をなくすのが楽だよね、という論理的な結論。

 

まあここまでは誰でも賛同できるくらい、ごく当たり前なことしか言ってない。

 

 

 

だから「苦しみをなくす、欲する心をなくすにはどうする?」と考えたとき、

八正道に従ってなくす努力をしましょうね、というのが道諦(どうたい)。

 

その八正「道」って言葉もそうだけど、

茶道だの華道だの柔道だの剣道だの、

何事も「道」ってつけちゃう日本人の価値観は、割と仏教臭くはある。

 

まあ道って言葉の解釈を語るとそれで日が暮れるから、また別の機会にするとして。

 

 

 

 

かくして仏教ってのは、

結論としての八正道を押し付けるものではなく、

まず苦しみがあることを認め受け入れて、それから諦めましょうと、そう教えているわけだ。

 

・・・と、僕はそう解釈することもできるから、そう喋ることもする。

 

仏教に絶対の正解なんてないことは散々説かれてきたからね。

「踊り念仏」なんてあったように、

こういうのはなんとなく伝わることのほうが大事だからな。

 

あっ了法寺のPV、知らない人のために置いときます。

 

 

 

 

 

で、この記事で言いたいことは何か?

(ここまで前置き)

 

 

 

 

 

この世の何がクソかって、

断捨離でも何でもいいんだけど、

この生き方や価値観だけが正しいと信じてるアホが多すぎることなんだよね。

 

○○党だから絶対に正しいなんてことはないし、

かといって政府与党だから批判しなきゃいけないなんてこともない。

結論ありきでモノ喋るアホとなんて会話したくもない。

 

正しければ評価し、魅力的なら評価し、間違えてるなら批判し、クソならクソと断じ。

日常においてはバカ騒ぎをするし、緊急時においてはルールを守る。

状況に応じて適した態度や反応ってものがあるじゃん?

 

「是々非々」と呼ばれる、適切な距離を置いた生き方を選べない奴が多すぎる。

 

僕がオタクコンテンツで極力オススメをしない理由はまさにそれで、

僕の傑作はあなたの駄作、あなたの神は僕の敵、そういう意識を忘れたくないのさ。

嫌でしょ? 聞かれてもいないオススメを列挙されるのは。

 

テレビや新聞や雑誌や教科書で散々やらされてきた、

面白くもないただの雑音に共感()しろというクソみてェな国語教育もそうだけど。

 

 

 

あなたの心をちょっとだけ楽にするコツは、

ひとつの価値観にこだわってしまったらオシマイだ、というごく簡単な話なのさ。

仏に曰く、苦しみを集める原因は、その価値観に縋り欲するあなたの心だからな。

 

もちろん、

「こだわらない!」

という価値観に

こだわってしまったら、

何の意味もないからねw

 

 

 

 

適度にこだわる。

好きで得意で問題がないならどこまでだってこだわる。

 

でも意識してあえて離れてみる。

自分からキチガイムーブをしてみるってことだな。

 

まあ仕事や家庭や世間体を捨てろって意味じゃあないよw

 

でも人生の、日常の何が自分の苦しみになっているのかって、自分じゃ中々わからんでしょ?

 

だからあえて捨てる、あえて変える、

あるいはそうすべきかなと思ったときこそあえて貫く

 

普段の自分では選ばない可能性、表が出たら裏の目に従う。

裏の目に従うべきだと思っても、素直に表の目に従う。

 

選択肢は本当にそれしかないのか、という自問自答にもつながる。

 

 

 

 

Q:かくいうお前こそ貧乏すぎて選択肢がそれしかねえだろアホかw

 

A:僕がそれしか選べない状況そのものを一度でも否定したかね賢者クン。

 

 

 

 

それしか選べないなら、それしか選べない原因は何か?

原因がわかっても解決できないならどうすればいいのか?

 

そうだね、認め受け入れ諦めることだ。

 

変えるための方法はないわけじゃないが、およそ現実的ではない。

僕が女だったらやれたんだろうが、男の言うことはまあ警戒されるからねw

 

僕は「できるというならお前が僕のかわりにやれ」という方法論を既に確立させてある。

そしてそれがおよそ非現実的な、不可能と呼んでいい領域にあることも知っている。

 

だから諦めて、選べるものを選ぶ。

 

 

 

 

諦めが肝心だという価値観ですら、諦めていいんだよ。

 

その結果どうなるのかは、

その結果を欲したテメェのせいで、

また別の、新たな苦しみを生み出すだろうがな。

 

苦しみから逃れるために試行錯誤したはずなのに、

なぜ新たな苦しみが生じるのか?

 

苦しみから逃れるために「自由を求めた」からだよねっていう。

 

本当の意味での「自由」は斯様に不安定で不安を喚起する。

だから自由を捨てて逃げ出すわけだ。

エーリッヒ・フロム曰く『自由からの逃走』。

 

 

 

 

 

何も考えずにいる、という生き方を常に考えるアホ臭さ。

 

こだわらない、という価値観にこだわり続けるアホ臭さ。

 

断捨離という価値観を断捨離できない矛盾。

 

「まず行動しろ」という説教をする前に行動を起さない矛盾。

 

 

 

 

アホを見てアホだと思ったのなら、

あなたにとって最適な道というのが見えてくるはず。

 

それを他人に説教できるくらいのオツムと人生経験、あるいは技能が欲しいよね。

たとえ自分が弱い存在であっても、正しい道を選べる勇気が欲しいよね。

 

・・・・・・・・と、道徳の教科書には書いてあるんだ。

「自ら省みて直くんば千万人と雖も吾行かん」と。

「義を見てせざるは勇なきなり」でもいいけどね。

 

 

 

 

オタクという動物は、いいものだけをいいと賞賛する人種のことだ。

 

面白くもない、魅力的でもないものなんかクソ喰らえと、正直に言える人種のことだ。

 

話題? 流行? 人気? そんなものはどうだっていいのさ。

 

他人を気にする必要がない趣味だから、オタク産業や二次元・ネットは愛された。

好きに遊んでいい。

 

ただし他人に接待を要求しちゃいけないオトナな空間だ、ともいうが。

 

それは結局、欲しがるから苦しむという当たり前な理屈なんだよね。

 

居心地のいい趣味界隈は自分で作れ。

求めるのではなく作れ。

求める限り苦しいが、作る限り楽しいんだよ。

 

求めるな、諦めろ、「そして作れ」。

 

仏教とオタク主義は相性がいいのさw

 

 

 

 

Q:お前はそれを誰から教わったんだ?

 

A:考えればガキでもわかることを本や他人から教わるとかお前どんだけ無能だよ(困惑)