あれから5年:その2 | 総合診療医:誰もがわかりやすく医療を理解する事ができるブログ

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2011年3月11日の震災の影響により、3月14日、福島原発の水素爆発が発生。
その時、まさに現場の真っただ中にいた人たちは・・・。
  
濱田氏が作成したこちらの論文(英文)から一部紹介したい。
→『http://www.risktaisaku.com/sys/enarticle/?p=35
  

原発1

  
陸上自衛隊の岩熊大佐らのチームは3号機爆発により、放射性塵の雲の中にあった。
白いほこりで、何も見えない状態であった。
  
無数の粉塵は、彼らの車を破壊し、タイベックスーツ(防護服)を引き裂いた。
爆発の後、若いドライバーは、膝と腰椎に重いけがをした。尚、岩熊大佐は奇跡的に無傷であった。
  

原発8

  
4時間後の15時頃、彼らは基地のあるオフサイトセンターに到着。
オフサイトセンターの線量はかなり上がっていて、屋内退避が指示され、フロントドアはロックされていた。
  
岩熊大佐は、ドア越しに関係者と話した。
センター内のメンバーの1人が、ガラスのドアを通って大佐岩熊の防護服の表面の線量率を確認した。ところが彼は測定を見た瞬間、恐怖に震えて内部に戻ってしまった。
隊長以下6名は、茫然とオフサイトセンターの前で立ちすくむことになる。
  

原発10

  
幸いなことに、放射線医学総合研究所の専門家が近くにいた。
  
彼は、隊長たちにすぐさま、「各人、2m以上離れて!でないと、お互いが出す放射線で被曝してしまう。」と指示したという。
3号機の爆発でぼろぼろになりたっぷりと放射能のダストを吸い込んだタイベックスーツと迷彩服は、ひどく汚染されていた。
  
その後、裏の除染所に走った6名はようやく身体除染を受けた。
岩熊大佐は計8回除染を受けた。
  

原発4

  
1枚目の写真は2011年の7月、岩熊大佐(右)と濱田氏(左)のオフサイトセンター前での姿である。
  
我々も何となくわかっているようなわかっていないようなあの頃に、このような事実があったのである。
死との危険と隣り合わせで頑張ってくれた関係者の方々に、改めて感謝したい。
  

原発3

  
岩熊さんとは、それから3年後の2014年に一度だけお会いしている。
  
写真の左から2番目が岩熊さん、私は左から3番目。
ちなみにこのグループで写真を撮ると、時々光エネルギーが映し出される。
    ↓

原発6

  
岩熊さんは、この時に「AGE年齢」を測定されている。
理想とされる数値は50歳以下である。
  
ところが普通に元気な岩熊さんのAGE年齢は、何と100歳以上であった。
そんな数値は私も初めて見た。
かなり、放射線の影響が残っていた。
  
幸運な事に、このグループと知り合う事ができて、彼はノニジュースを飲んでいる。
ノニジュースは体内の放射線を減らす事ができるという論文(英文)がある。
→『https://inis.iaea.org/search/search.aspx?orig_q=RN%3A31029640
  
岩熊さんのAGE年齢は着実に下がりつつあるそうだ。
最近もテレビの取材をうけておられた。
  

AGEスキャナー2

  
同じグループに所属している濱田さんも、防衛省や各国大使館、ラジオ出演など様々な所で大活躍をされている。
  
濱田さんは一番右、私は一番左。
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原発9

(招き猫由来の豪徳寺にて)  

  
そして最後の写真。
今は亡き、福島第一原発吉田所長から自衛隊の岩熊大佐にあてられた手紙。
  
3号機水素爆発に対する心からの謝罪の言葉が綴られている。
今はただ、感謝と追悼と、これからの日本の行く末を思う(濱田氏の言葉を引用)。
    ↓

原発
  

地震11
  
その1はこちら
→『救急医である私はその時・・・